【コラム】事大主義の前に事小主義がある=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.02.04 16:22
1991年11月12日午後、当時の銭其シン中国外相が青瓦台(チョンワデ、大統領府)に入ってきて盧泰愚(ノ・テウ)大統領と面談を行った。翌日には新羅ホテルの1431号室で実力者だった朴哲彦(パク・チョルオン)体育青少年部長官と2時間会った。中国は韓国戦争(朝鮮戦争)で北朝鮮側に立ち、韓国と血を流しながら戦った敵性国であり未修交国だった。こうしたことが一体どうして可能だったのだろうか。なぞのカギは外交力にあった。
銭其シンは第3回アジア太平洋経済協力会議(APEC)会議参加のためにソウルに来たが、これは全面的に韓国のために可能だった。89年の天安門事件後に孤立した中国は、改革・開放の突破口を探すためAPECへの加入を切実に望んでいた。敵対関係の台湾を除いて単独加入することを望んだが、加盟国は中国・台湾・香港の同時加入を支持した。難題を一手に引き受けた次期議長国の韓国が8カ月間のシャトル外交を繰り広げて3カ国を全て満足させるフォーマットを作って同時加入させた。多国間外交の経験が一度もない韓国の成功事例であり、韓中修交の礎石になった。