주요 기사 바로가기

<北朝鮮金養建死去>金正恩の前で「休め姿勢」…ショーマンシップ強くジェントルマン

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.12.31 11:10
0
堂々とした中でも柔軟性を失わなかった「ジェントルマン」。北朝鮮が30日に死去を伝えた北朝鮮の対南総責、金養建(キム・ヤンゴン)労働党書記を近くで見た印象だ。

金養建書記は昨年10月4日、仁川(インチョン)アジア競技大会の閉会式に出席した。金正恩第1書記の指示で黄炳瑞(ファン・ビョンソ)軍総政治局長、崔竜海(チェ・ヨンヘ)党書記と一緒だった。北朝鮮の幹部3人の訪韓だった。現場取材を担当した記者は当時、金養建の韓国滞在の全日程を追った。金養建は12時間を仁川で過ごしたが、対南情勢に明るいという点から表情に自信がみられた。初の訪韓でぎこちなく緊張していた黄炳瑞(ファン・ビョンソ)、崔竜海(チェ・ヨンヘ)とは違った。取材陣にもあいさつをし、余裕のある笑顔を見せた。

 
当時、南北間で最初の歓談があった仁川オークウッドホテルと韓国料理店の迎賓館に取材陣と市民が集まると、黄炳瑞と崔竜海は急いで席を外した。しかし金養建はゆっくりと当時の金奎顕(キム・ギュヒョン)青瓦台(チョンワデ、大統領府)国家安保室第1次長(現外交安保首席秘書官)に近づいて密談をした。メディアのスポットライトを楽しむような場面が演出されると、南側の行事関係者の間では「大変なショーマンシップだ」という声も出てきた。その一方で団長格である黄炳瑞には礼儀正しく行動する姿を見せた。金養建は歓談で「我々の(黄炳瑞)総政治局長同志の承認を受けて話す」と述べたりもした。非公開の席では「私も昨日『南側に行ってこい』という(金正恩の)命令を受けて急に来ることになった」と突然の訪朝の事情を語ったと、当時の同席者は伝えた。

金養建は金日成大でフランス語を専攻した。北朝鮮労働党国際部の外交通で、金正日総書記時代の1997年4月に党国際部長となった。しかし10年後の2007年3月には対南事業を掌握する党統一戦線部長に変身した。

金正恩時代に入って金養建は他の幹部とは違い、恐怖政治の犠牲になったり左遷・粛清を経験しなかった。これは金正恩第1書記が異母兄の金正男(キム・ジョンナム)ら他の兄弟を抑えて後継者に擁立されるのに金養建が寄与したためというのが、対北朝鮮情報当局の分析だ。金養建の夫人が金正恩の生母の高英姫(コ・ヨンヒ、2004年死去)と親しく、金正恩が「叔母」と呼んでいたという話もある。政府当局者は「難しい時期に生母と自分を助けて後継権力を握れるよう寄与した金養建は、金正恩としては格別だったはず」と話した。

金正恩に随行する時も金正恩の夫人の李雪主(イ・ソルジュ)と目を合わせて対話するなど、委縮する姿を見せる他の幹部とは違った。2年前に処刑された張成沢(チャン・ソンテク)国防委副委員長の「罪目」に含まれた「休め姿勢」を金養建が何ともなくする場面も確認された。

こうした点から金養建は名目上の国家首班である金永南(キム・ヨンナム)最高人民会議常任委員長の後を継ぐ人物に挙げられた。しかし不意の交通事故で死去し、南北関係での役割は期待しにくくなった。新年に執権5年目を迎える金正恩権力の核心からも下車した。

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0

    포토뷰어

    <北朝鮮金養建死去>金正恩の前で「休め姿勢」…ショーマンシップ強くジェントルマン

    2015.12.31 11:10
    뉴스 메뉴 보기
    金養建は金日成主席時代から側近だった。1994年の国際部副部長時代、バングラデシュ民族社会党代表団に会った金日成主席に随行した金養建。右側の写真は2009年8月、玄貞恩(ヒョン・ジョンウン)現代グループ会長と金正日総書記の面談に同席した金養建。(中央フォト)。
    TOP