【コラム】韓国語の価値(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2015.10.12 09:32
率直に最近は大学で講義の準備をするのが以前に比べ容易になった。慶熙(キョンヒ)大学回基洞(フェギドン)キャンパスで教えていた時には授業準備と進行を韓国語でやっていたため苦情は並大抵でなかった。もちろん十分にハングルを読んで書くことができるが、31歳の時に習ったため発音が良くなかった。いまでは英語で講義をすることになり討論もさらに活気を帯びる。英語の講義が負担になる一部の学生にはちょっと申し訳ない話だが。
国際大学院の学生たちにもまれ、そのうちの大多数がハングルに対する基礎がほとんどなく、ハングル教材を読めないのは言うまでもなく、ハングルで書かれた資料を利用した研究すら不可能だという事実を知ることになった。大学側では国際大学院の学生なら英語を通じた授業と宿題を当然視するようだ。しかし韓国語の実力が落ちる学生たちは卒業後の就職に大きな困難を経験することになる。これは全面的に韓国語の実力のせいだ。
自分にもそのような時期があった。1990年代に東京大学の大学院で比較文学を勉強していた時、相当水準の日本語の実力を備えようと全科目を日本語で受講し、修士学位論文も日本語で作成した。東京大学に行った時には私の日本語の実力はみすぼらしかった。しかし毎日20~70ページほどの読書量を満たさなければならないため、自然に実力が伸びた。この厳しい試練が日本滞在時に生かじりで日本語を習う大多数の米国人と私の間を分けた。