주요 기사 바로가기

【コラム】芸術韓国の素顔(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.10.07 09:47
0
話題も多く、落ち度も多かったアジア競技大会が幕を下ろした。スポーツ観覧はそれほど好まないし試合を見ることも多くないが、専攻のためか開幕式と閉会式は漏らさず見ることになる。これも偏食といえば偏食だ。汗を流して競技の準備をし、最善を尽くした選手たちに申し訳ない気持ちがないわけではないが、誰かが一度のミスでメダルを逃すような痛ましい場面を見なくても良いから、一方では気が楽だ。一種の自己合理化といおうか。

重要な国際大会が開かれても試合を見ないのは、放送を中継する者たちの態度のせいでもある。資料準備が不足したまま激昂した姿で韓国選手たちのメダル獲得だけをうながす上ずった声は、いくら努力しても適応できない。子供たちを小学校から殺伐とした習い事競争に追いやる苛酷な親のようだというか。試合が始まる瞬間、アジアの疎通と協力という大会開催の名分は完全に消え去り、すさまじい競争が残るだけだ。

 
今回のアジア競技大会の開幕式は、散漫なものだった。多くの出演者が運動場のあちこちを熱心に飛び回ったが、本来のストーリーはまともに伝えられなかった。解説者の説明なしに俳優チャン・ドンゴンが仁川(インチョン)市民を象徴し、俳優キム・スヒョンが「星から来たエイリアン」を象徴すると誰が分かるだろうか。いったいいつから沈清(シムチョン、朝鮮に伝わる民話の主人公)が誕生神話の国母になったのだろうか。沈清がプレゼントボックスから電話機を持ち出して不思議な顔をするパフォーマンスで、通信発達をこえてアジアの疎通を表現したという解説に及んでは失笑に耐えない。

開幕式が散漫だったとすれば、閉幕式は食傷ぎみだ。子供の合唱団の歌、伝統舞踊と国楽、韓流歌手につながる配列は、いつのまにか公式行事ごとに繰り返されるレパートリーとなった。単に、日常的な国内公演の超大型バージョンとでも言おうか。外国人観客のための公演だから国内の観客は耐えてくれと言うこともできる。いくらそれでも30年前も今も似たような内容だとは。一糸乱れぬテコンドーの群舞と撃破示範も88年オリンピックの時にすでに見せたものではないか。


【コラム】芸術韓国の素顔(2)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP