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【噴水台】歴史は和解し発展する…浄化経た新しい友人、韓国とベトナム

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.09.13 10:18
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小学生だった1970年代初期、隣に「ベトナムから帰ってきた真っ黒いキム上士」が暮らしていた。ベトコンの手榴弾で視力を失った傷痍勇士の家長だった。その家は、家族みんなで手紙の封筒をつくる仕事をしていたが、いつも貧しかった。こんなふうにベトナムに対する記憶は重いイメージから始まった。

75年、ベトナム崩壊後、釜山(プサン)に到着して西大新洞(ソデシンドン)の旧釜山女子高に臨時に集まっていたボートピープルは、そこに重圧感まで加えた。当時、中学生として通学していた途中、一部の難民が道路周辺の窓から南ベトナム紙幣を街中に投げる姿が目撃できた。詩人・金光均(キム・グァンギュ)の『秋日抒情』に出てくる「ポーランド亡命政府の紙幣」のように紙切れに変わってしまったお金が、街中に落葉のように舞った姿が鮮やかに目に浮かぶ。それと共にベトナムは、詩人・奇亨度(キ・ヒョンド)が詠んだ「葉の中の黒い葉」のように、何か不安で恐ろしいイメージに変わっていった。

 
90年代初め、韓国の定着難民がソウル恵化洞(ヘファドン)にベトナム飲食店を出したといううわさを聞いた。訪ねて行ったところ韓国人が敬遠する香菜をたっぷり使い塩辛の臭いも漂うオリジナルだった。当時はエキゾチックな味に人気がなかったのか店は閑散としていた。その後、米国で味が改良されたベトナムの麺チェーン店が進出してくる中でその店は静かに消えた。こうしてベトナムは悲劇のイメージを増した。

イメージが変わったのは何年か前、英国ロンドンを訪れて偶然見たホー・チ・ミンのブルー・プラーク(blue plaque)のためだった。ブルー・プラークはその建物に住んでいた歴史的な人物を追憶する青色の看板だ。「英国・ベトナム協会。ホー・チ・ミン。1890~1969。現代ベトナムの創設者。ここにあったカールトンホテルで1913年に仕事をしていた」という表示がロンドンの中心地トラファルガー広場近くのニュージーランドハウスの壁にかかっていた。その建物の1階のスポーツカフェに立ち寄って、入口のそばでこれを発見して驚いた。

米国の歴史学者エドウィン・キスター・ジュニア(Edwin Kister Jr)の『彼らが世の中を変える前』という本を読んだところ、20代の頃にフランス・米国・英国・ロシアを歩き回ったホー・チ・ミンが一時ここで台所の手伝いの仕事をしていたという。指導者を美化するだけに終わらず、貧しかった頃も伝える英国・ベトナム協会はすごいという気がした。おかげで革命しか知らなかった彼が突然、人間的な姿で近づいてきた。植民地の青年ホー・チ・ミンの苦悩がどんなものだったろうかとも想像できた。当時は韓国も植民地だったではないか。

朴槿恵(パク・クネ)大統領が9日、ベトナムで国父ホー・チ・ミンの墓地を参拝した。前日には両国の企業家に会ってベトナム語で「以不変応万変(不変に以って万変に応ず)」、すなわち『変わらないものによって、すべての変化に対応する』という彼女の座右の銘に言及したという。ベトナムが非常に近くなった印象だ。歴史の浄化を経て、友人として変化の新しい時代を切り開く両国の姿に、こまやかで深い愛情を感じる。

チェ・インテク論説委員

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