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韓国に初めてきたゴーギャン、歓迎だけに終わらない理由

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2013.07.09 17:02
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49歳、成し遂げたのもなく失おうとしていたのは自尊心だけだった。ゴーギャン(1848~1903)はそれを守ろうとフランス領タヒチに自らを島流しにした。妻は5人の子供の中で最もかわいがった娘の死去の便りを送った。その15年前、パリの株式市場の崩壊で勤務していた銀行が破産するとすぐに専業画家になる中、別居を宣言した彼女だ。コレクターであり日曜画家として裕福だった金融家ゴーギャンの人生は34歳、その時に変わった。

娘の死後、半年間は筆をとれないまま思い悩んでいた。カトリックについての会議まで聞いた。『 我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』は当時の彼のテーマであった。同じ題名の139.1×374.6センチの大作を1カ月間、昼夜を問わず描き続けた。人間の誕生から死までを描いた絵は、このようにして完成された。筆を置いてゴーギャンは1人で山の中に入り自殺を企てた。未遂に終わって心臓まひで亡くなるまでさらに5年生きた。

 
ボストン美術館所蔵のこの作品がソウルにきた。『 説教のあとの幻影』(1888)、『黄色いキリスト』(1889)などの主要作品が、韓国内での初のゴーギャン展のために一堂に集まった。ソウル市立美術館の『楽園を描いた画家-ゴーギャン』展だ。全世界30余りの主な美術館から保険評価額1兆5000億ウォン(約1330億円)相当の作品約60点がくると、開幕前から話題だった。ソ・スンジュコミッショナーは「ゴーギャンは自由な魂を持ちたいと願っていた19世紀最後の印象主義者であると同時に、印象主義時代を終わらせた最初の近代画家」と説明した。

展示には迂余曲折があった。ソウル市立美術館のキム・ホンヒ館長は昨年就任して「企画会社の貸館展示は開かない」と明らかにした。ソウル市立美術館や芸術の殿堂など“主要な美術館”らがイベント企画会社のブロックバスター展に場所を貸して貸館料をもらうことばかりしていて、“不動産屋の商売”でもしているようだとの批判を意識したためだ。

西欧名画展は悪いことばかりではない。このような機会でなければあの大作をどうやって実際に見ることができるのか。ただし正規学芸員の人材が貸館審査にだけ没頭するような、意味のある展示を設けることができない美術館の力量不足は批判を受けるだけのことはあり、館長がこのような問題を自覚しているのは幸いなことだ。

ゴーギャン展は結局またほかの外部プランナーが現代美術家たちの連係展示を設けることで葛藤を縫い合わせた。展示の最後にヤン・フドン、ノ・ジェウンなどの作品が脈絡のないまま設置されている理由だ。貸館に終わるのではなく企画に参加しなくてはいけないという美術館側の“苦悶”が読みとれるが、いかにも強引な感じだ。

韓国ぐらいに西欧名画展を好む日本はどうだろうか。今春、東京国立近代美術館ではフランシス・ベーコン(1909~92)の死後初めてのアジア回顧展が開かれた。国内美術家の間でも話題を集めたこの展示の終わりには、小規模資料展が用意されていた。ベーコンが活躍した時期、日本では彼の作品がどのように受容されたかを扱っていた。美術雑誌記事や年表、そして“身体の政治学”に深く掘り下げたベーコンの芸術が、日本の現代舞踊とどのように関連したのかを見せる公演映像も一緒だった。美術館が“アジアで最初”“単独”などの数字に寄り添わないで「なぜ私たちにベーコンなのか」という基本前提からとらえたおかげだ。美術館は美術現象についての歴史的認証が生じる場所であるからだ。

それならば、なぜ今ソウルでゴーギャンなのであろうか。展示を見ても分かりにくい。“苦悶”が不足していたためだ。いまだに名の通った名作だけを持ってくれば観客があふれかえるだろうと考えているのだろうか。

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    2013.07.09 17:02
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    ポール・ゴーギャン、『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』1897~98、139.1×374.6センチ、キャンパス・油彩。(写真=ボストン美術館)
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