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「朝鮮の領土」という日本内務省の意見を無視、独島編入を主導した山座円次郎(2)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2012.08.22 15:39
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◇48歳で死亡、行跡は知られず

崔書勉院長が最近入手した文書がある。 山座が加藤増雄という人物に送った手紙7枚だ。 加藤は韓国でもよく知られている。 大韓帝国時代、ソウル駐在日本公使として活躍し、高宗の信頼を得て韓国で宮内府顧問を務めた人物だ。

 
崔院長が入手した山座の手紙の一部には、「朝鮮の地を軍事的に活用できるように措置を取ってほしい」という趣旨の内容が書かれている。 加藤に大韓帝国の皇室を動かし、韓半島の一部を軍事的に活用できるようにしろということだった。 1905年のロシアとの戦争で、日本は鎮海に注目したと伝えられている。 バルチック艦隊が大韓海峡を通過し、東海(トンヘ、日本名・日本海)に入るところとなる鎮海の軍事的な重要性を看破したのだ。

山座は当時、英国との同盟締結を主導した後、ロシアを制圧し、アジアへ膨脹しようという計画を主導した人物だ。 山座は加藤に手紙を送り、計画通り日本は鎮海をバルチック艦隊との戦争基地として十分に活用した。 崔院長は「こういう記録から日本がどのように韓半島を併合するに至ったかが分かる」とし「山座の手紙には豆満江河口の島の鹿屯島を偵察し、日本が割譲を受けるように状況を形成した後、満州地域進出の拠点にしようという内容もある」と伝えた。

1905年に日露戦争を勝利に導いた山座は結局、独島だけでなく韓半島全体を日本の影響下に置く‘保護国化’に成功した。 乙巳勒約がその後に続いたのは言うまでもない。 1907年にハーグ密使事件があった後、日本は大韓帝国の外交はもちろん、内政上のすべての権限までも奪う丁未七条約を締結した。 韓半島の運命を決定するこうした一連の事件が山座の手で進められた。

山座の役割がこれほど重大であったにもかかわらず、その行跡があまり知られていない理由は、山座が若い年齢で死亡したからだ。 山座は1908年に外務省政務局長を退き、英国で4年間勤務した後、1913年に中国特命全権大使として赴任した。 今でいう駐中日本大使だった。 山座は翌年5月27日、執務室で倒れた後、死亡した。 中国南部の政治勢力に友好的だった山座を、中国の当時の実権者である袁世凱が毒殺したという陰謀論が出たりもした。(中央SUNDAY 第284号)


「朝鮮の領土」という日本内務省の意見を無視、独島編入を主導した山座円次郎(1)

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