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【コラム】21世紀の張保皐を待ちながら=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.08.22 10:09
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今年は干支でいえば壬辰だ。しかしこの夏、中国では「甲午」の2文字が入った映画が登場した。先月6日に公開された「1894・甲午大海戦」だ。甲午海戦は日清戦争中にあった2つの海戦の一つだ。一つ目は豊島海戦。甲午年の1894年7月25日、日本は韓国西海(ソヘ、黄海)の豊島沖で清の艦艇を奇襲攻撃し、日清戦争の幕を上げた。

2つ目が映画の素材の甲午海戦だ。鴨緑江(アムノッカン)河口から遠くない西海で、清の北洋艦隊12隻と日本の連合艦隊12隻が向かい合った。清の艦艇は5隻が撃沈したが、日本は5隻が破損しただけだ。甲午年9月17日のことだった。清は敗れたが、鄧世昌という悲運の英雄を生んだ。砲弾がなくなると、艦艇を敵船に衝突させ、敵とともに死のうとした人物だ。鄧世昌が映画の主人公だ。

 
甲午海戦の後、北洋艦隊は山東省威海沖の劉公島に避難した。しかし翌年2月、ここまで追いかけてきた日本陸・海軍のはさみ撃ちで壊滅し、日清戦争は幕を下ろした。その後、日清間で締結された講和条約の第1条は「中国は朝鮮が完全無欠の自主独立国であることを承認する」というものだった。朝鮮に対する清の宗主権を否定し、日本の朝鮮侵略を容易にするための措置だった。私たちとしては嘆かわしいが、約100年前の厳然たる歴史的事実だ。

今月初め、劉公島を訪れた。威海埠頭から船に乗ると、20分で到着するほど近い。当時アジア最強といわれた北洋艦隊は、なぜ力も発揮できず全滅の道をたどったのか。劉公島内の甲午戦争博物館と北洋艦隊の提督・丁汝昌の住居など、あちこちに散在した遺跡は、敗戦の傷を隠そうとはしていなかった。歴史的な痛みを教訓とするためだ。

北洋艦隊は李鴻章の指揮の下、1888年に編成された。日清戦争直前には鉄甲船を含め、29隻の艦艇を保有した。アジア最強、世界4位という評価もあった。しかし、いざ甲午海戦が始まると、問題が表れた。丁汝昌が乗った旗艦「定遠」は開戦初期から炎に包まれた。砲塔が燃え、丁汝昌がやけどを負い、旗が焼け、指揮体系に打撃を受けた。7年間、一度も修理をしなかった結果だ。「致遠」を指揮した鄧世昌は砲弾がなくなると戦死した。

「定遠」はなぜ修理ができず、「致遠」はなぜ砲弾がなくなったのか。

これに関する説明を私たちは清の夏の別宮である北京の頤和園に行った時に聞いた覚えがある。当時、清の西太后が北洋艦隊の資金を流用し、自分の住居としていた頤和園に使ったのだ。特に甲午年に60歳を迎える西太后の誕生日祝宴の準備のため、北洋艦隊は1891年から砲弾の購入が全面不許可になっていた。一方、日本は皇室の経費を減らし、艦艇の購入資金を確保した。日清戦争はすでに準備段階で勝敗が分かれていたのだ。

現在重要なのは、中国が敗戦の現場である劉公島のあちこちに記念館を建設し、また関連映画を制作する理由だ。約100年前の恥辱を二度と繰り返してはならないという覚悟だ。江沢民元国家主席は甲午戦争博物館を「全国青少年教育基地」に指定した。愛国主義の鼓吹が目標だ。映画「甲午海戦」が伝えるメッセージも明瞭だ。海軍力の強化だ。実際、中国は海洋国ではない。漢字を見ても海の魚の名前は多くない。それだけ海とは距離を置いて暮らしてきたためだ。


【コラム】21世紀の張保皐を待ちながら=韓国(2)

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    2012.08.22 10:09
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    少なくとも私たちの近海で私たちの運命をめぐり第3の国が争うという嘆かわしいことが発生しないよう、21世紀の張保皐を養成しなければならない。
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