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【その時の今日】左右統合の努力、挫折…北に拉致され死亡した金奎植

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.12.11 12:01
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仁川(インチョン)上陸作戦(韓国戦争中の1950年9月15日に国連軍が仁川に上陸し、ソウルを奪還した一連の作戦・戦闘のこと)で後退していた北朝鮮軍によって北朝鮮に拉致された独立運動家、金奎植(キム・キュシク)が1950年12月10日、平安北道満浦鎭(ピョンアンブクド・マンポジン)で逝去した。

 
甲申政変(1884年12月4日に朝鮮で起こったクーデター)から3年前の1881年に釜山東莱(プサン・トンレ)で生まれた金奎植は、満70歳の誕生日をおよそ1カ月半後に控えてこの世を去った。同氏は金九(キム・ク 白凡)とともに大韓民国の臨時政府を代表する人物だった。

1919年に臨時政府が設けられた直後、外務総長と学務総長を歴任した金奎植は、臨時政府が独立運動路線の問題で分裂すると、臨時政府を離れて民族革命党を組織したが、40年、民族主義の左右合作運動の際、再び復帰、解放(独立)以後まで臨時政府の副主席として活躍した。

金奎植は金九や李承晩(イ・スンマン)、呂運亨(ヨ・ウンヒョン)のように政治家としてカリスマのある人物ではなかった。むしろ同氏は教育者の風貌を持っていた。金奎植は米ルノク大学を卒業し中国の名門、復旦大学と北京大学で教鞭(きょうべん)をとり、海外留学のため上海入りする韓国の若者らを教える塾を開設したこともある。

同氏は自身が中心的なリーダーになるよりは、分裂した政治指導者の統合のために活動した。30年代の民族唯一党運動や40年の臨時政府への合流、いずれも分裂した独立運動家の統合に向けたもので、解放以降は左右合作運動と48年の南北(韓国・北朝鮮)交渉を通じて分断を防ぎ、左右政治指導者の協力を導き出そうとした。

事実上、40年代の臨時政府の拡大改編を除いては、金奎植の政治勢力の統合に向けた努力が成功した事例はなかった。だから最近では左右合作運動や南北交渉だけでなく臨時政府までいずれも非現実的で、失敗するほかなかったと評価されている。45年以降世界に冷戦的秩序が広がり、これによって資本主義と共産主義体制に分かれた状況で、左と右の疎通を通じた第3の道は非現実的な理想主義にすぎなかったということだ。

しかし歴史は長い観点から見るものだ。義兵運動や3.1運動(1919年3月1日に起こった朝鮮の抗日独立運動)が決して成功した運動ではなかったにもかかわらず、誰もその意味を非難または無視できないのと同じく、短期的な観点から失敗した事件だからといってその意味を縮小できない。左右合作運動や南北交渉が、当時の世界秩序または金奎植という個人の政治的能力、あるいは諸政治勢力の根深い対立のため成功できなかったとも評価できるが、疎通に向けた同氏の努力は現在までも大切な経験として記憶されている。

金奎植が米軍政により樹立した過渡期の立法議会で議長を務めた際、同氏を猛非難していた北朝鮮もその大切さを無視できず、結局同氏をいわゆる「愛国烈士の陵」に安置した。「社会的疎通」が切実に求められるこの頃、同氏を思い起こしながら新たな金奎植が現れることを期待するとしたら欲張りすぎなのだろうか。

                  ソウル大国際大学院・朴泰均教授(パク・テギュン、韓国現代史)


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