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【噴水台】長州砲

2008.12.01 14:22
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日本本州の西端の港の下関は関門海峡を挟んで九州と向かい合っている。 海底にトンネルが造られ、歩いても10分ほどで渡れる狭いこの海峡を、一日に700隻の船が行き来する。

 
1863年5月、関門海峡を航海した米国商船に向かって、大きくてどっしりした青銅大砲が火を吹いた。 下関が属する長州藩が西洋の蛮人を追い払うために起こした戦争だった。 無謀さの代価は酷烈だった。 懲戒に動いた4カ国連合艦隊(英国・フランス・オランダ・米国)の火力に長州は力なく膝を屈した。 列強4カ国は賠償金300万ドルとともに長州藩が保有していた青銅大砲100余門をすべて奪って行った。 この戦争をきっかけに西欧文物の力を初めて知った長州は、壌夷から開国に急旋回し、明治維新の主役になった。

奪われた長州大砲の一つが日本に返還されたのは1984年のことだ。 記者出身の歴史小説家である古川薫がパリ軍事博物館で長州砲を見つけ、返還運動を繰り広げると、下関出身の安倍晋太郎外相がフランソワ・ミッテラン大統領と談判した。 フランスは「戦利品は返す義務はない」と粘った。 相当期間遅れた交渉は「相互賃貸方式」に合意して劇的に妥結した。 日本は長州大砲を返還してもらう代わりに、旧領主の鎧一つをフランスに貸与した。 契約は2年ごとに自動延長されることにし、実質的には永久賃貸となった。 132年ぶりに日本に戻った大砲は下関の博物館に落ち着き、同じように作った模造品は無謀だった「あの時、あの場所」で関門海峡の滔々と流れる海を見守っている。

すでに読者は長州砲の話をくどくどと述べてきた理由に気づいているはずだ。 1866年の辛未洋擾当時、フランスの軍人が奪って行った外奎章閣儀軌と絶妙にオーバーラップするからだ。 先週、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の主催でソウルで開かれた文化財返還国際会議でも、この問題が議論された。 「略奪文化財は返還すべき」という韓国代表に対し、フランス代表は「国有財産は譲渡が不可能だ」と対抗した。 しかし長州胞の事例は返還が不可能ではないことを示している。 どれだけ粘り強く説得し交渉するかによって結果は変わりうる。 すでに返還交渉を始めて15年が流れている。

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