【時論】知識と大学が捨てられている=韓国(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.02.27 07:50
知識は事物と現象を理解する力だ。唯物論が先か、観念論がもっと重要かをめぐって争いは絶えない。しかし知識も完ぺきではなく、宗教にも相通じるように、確実性というものは古代人が呼んだ傲慢(hubris)以上のものではない。ヘーゲルの言葉のように「知識は、われわれにフルーツを差し出す美しい娘の目から通り過ぎていく自己認識」と同じかもしれない。
大学は学問の実験室であり運動場だ。ところが学問の各分科は無秩序な市場の踊り場で踊りもまともに踊ることができないようだ。うわべだけもっともらしい独自領域を守るのに余念がない。真理は空ではなく地上(現場)にあるのに、ミネルバのような大学の勢力が強い今日、われわれは地図だけでそこにある地域のあらゆる特性を説明しようとする。分析の世界と経験の世界間の類質同像(isomorphism)を固めてこそ知識が生き、大学が羽根を伸ばすことができる。そうなるべき大学が、ただ一つの機関に成り下がり、対立する勢力の角逐場になってしまった。