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大韓帝国の外交資料、130年ぶり公開(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.02.14 15:51
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独立活動家の月南・李商在(イ・サンジェ)先生(1850-1927)の遺品であり在米大韓帝国公使館に関連する外交資料8点が130年ぶりに公開された。

文化財庁は李商在先生の子孫イ・サング氏(74歳)氏から寄贈された外交資料8点を13日午後2時、国立古宮博物館で公開した。この資料は国外所在文化財財団が米ワシントンの在米大韓帝国公使館を復元しながら史料を調べる過程でその存在が初めて世間に知られたものなどだ。

 
李商在先生は1887年に在米公使館の書記官に任命され、朴定陽(パク・チョンヤン)初代駐米公使とともに1888年1月に米ワシントン入りし、同年11月に朴定陽公使と帰国するまで現地で在米公使館を開設するなど公館職員として活動した。

◆初の外交活動を記録した最初の資料

寄贈資料は文献5点と写真3点。このうち『美国公私往復随録』と米国書簡はこれまで学界に報告されていないかった最初の資料であり、特に注目される。当時米国と交渉中だった業務と公使館の運営、公館職員の活動状況などを詳細に記録している。

『美国公私往復随録』は、公館職員の「業務便覧」に該当するもので、1883年に米国のチェスター・A・アーサー大統領が初代駐韓公使ルーシャス・ハーウッド・フットを朝鮮に派遣して高宗(コジョン)に伝えた外交文書▼朴定陽公使が米国政府または関係者と交わした各種文書▼在米公使館を通じて推進していた朝鮮王朝と米国政府間の各種懸案事業に関する文書▼業務遂行に必要な各種備忘録--などで構成されている。

◆京仁線敷設「鉄道約章」草案

特に、当時の朝米間の懸案事業のうち「朝鮮機械会社」を設立して鉄道、揚水機、ガス設置の3件を推進するために提案した規則と約定書の草案が収録され、このうち彼らが京仁(キョンイン)線の設置を提案した事実と契約書「鉄道約章」草案が共に収録されている点が目を引く。

京仁線は1896年に朝鮮が米国人のモース(J.R.Morse)に敷設権を許可したが、モースがこれを1897年5月にまた日本側に譲り、結局1899年9月に日本側が完工したと伝えられていた。今回の資料を通じて、1888年に朝鮮は鉄道敷設事項を在米公使館を通じて米国側と議論し、関連契約書の条文まで具体的に検討していたことが確認された。

国外所在文化財財団のカン・イムサン協力支援チーム長は「大韓帝国はすでに鉄道の重要性を認識して導入を推進していたし、公使館が自主外交だけでなく近代文物を導入する窓口の役割をした事実が確認された」と説明した。

◆中国との葛藤記録

この記録には中国に関連する内容も登場する。本文には「中国公使が毎回因縁をつけ、進退維谷まる状況」「最も耐えがたいのは中国公使が毎回譲歩せず固執することだ。このため衝突が生じれば我が国が苦しめられないか恐ろしい」と書かれている。

また「中国公使との間には多くの確執がある。中国公使は毎回、体制でわが国の公使の上に立とうとし、わが国の公使もその下に入ろうとしない。この国に駐在する各国公使は30カ国ほどで、すべて富強な国であり、わが国だけが貧弱だが、各国の公使に劣勢にならないようにしている。ここで少しでも劣勢になれば、それは国の恥であり、使命を汚すことだ」という内容も見える。

1888年に朴定陽公使が病気で一時帰還するため書記官の李夏栄(イ・ハヨン)を代理公使に任命すると米国政府に通知した文書もある。ハン・チョルホ教授は「朴定陽は中国側の派米許諾条件だった『レイ約三端』を履行しなかったため、駐在中はずっと中国の強い抗議と圧力に苦しめられた」と説明した。結局、政府は1988年11月12日、中国政府の圧力に屈服して朴定陽に召喚命令を出し、外交官のホレイス・ニュートン・アレンを代理公使に任命した。

これに対し朴定陽公使は朝鮮人官員がいるにもかかわらず外国人を代理とするのはみっともなく他国の嘲笑をかうという理由で、アレンの代わりに彼より職位が低い書記官の李夏栄を推薦して許諾を受けた。


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    2019.02.14 15:51
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    在米公使館在職時代の李商在(1850-1927)先生。1888年にワシントンで撮影。(写真=文化財庁)
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