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明成皇后殺害「悲運の乾清宮」、98年ぶりに復元

2007.10.19 15:35
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1887年3月、朝鮮(チョソン、1392~1910年)時代の第26代王・高宗(コジョン、1852~1919年)は、景福宮(キョンボックン)の乾清宮(ゴンチョングン)付近に街灯を設けた。朝鮮初めての電気で、エジソンが電気を使ってから8年後のことだ。中国・日本の宮城より2年も先立った設備だった。

高宗時代の近代化の現場、乾清宮がおよそ3年にわたる復元工事を終え、18日に姿をあらわした。1909年に、韓国を植民支配していた日本により撤去されてから98年ぶりのこと。文化財庁はこの日、復元された乾清宮を公開し、20日から一般観覧もスタートすると発表した。

 
景福宮北方の庭園「鹿山(ノクサン)」と香遠亭(ヒャンウォンジョン)の間にある乾清宮は、昌徳宮演慶堂(チャンドックン・ヨンギョンダン)と楽善斎(ナクソンジェ)のように、士大夫の邸宅に似た様式の建物。規模は、両班(ヤンバン、朝鮮時代の特権的な官僚階級)家屋の上限となる99室の2.5倍にあたる250室。

士大夫の家門では、母屋と居間を区分したのと同じく、王の部屋「長安堂(チャンアンダン)」、王妃の部屋「坤寧閤(コンニョンハプ)」、そして付属の建物「福綏堂(ボクスダン)」などからなっている。乾清宮は1873年、在位から10年後に興宣大院君(フンソンデウォングン)の摂政から抜け出した高宗が建てた。

一人立ちを始めた高宗は、この宮に「天は清く(乾清)、地は安らかで(坤寧)、長らく平穏に過ごす(長安)」という願いを込めた。長安堂を中心に、右側の坤寧閤は韓国式に作り、左側の集玉齋(ジプオクジェ)は中国式レンガ作りとなっている。長安堂の後ろには、玉壺樓(オクホル)という3階建て・西洋式の建物を建てたが、現在は跡地だけ残っている。

集玉齋のそばには、西洋の時計台が設けられた。伝統社会で時刻を決めるのは君主固有の権限。高宗は伝統時計・自撃漏(水時計)の代わりに西洋の時計を導入した。ソウル大・李泰鎭教授(イ・テジン、国史学)は「ミックスされた建物の様式・電灯・時計台などに、西洋の文物を積極的に受け入れたいという君主のメッセージが盛り込まれている」と説明した。

しかし、乾清宮はこれまで、朝鮮王朝が没落した現場としてさらに有名だった。1895年に「明成皇后(ミョンソン、1851~1895)がここで日本人の刺客により殺害されたからだ。乙未事変(明成皇后殺害事件)の当時、日本の一等領事・内田定槌の報告書によると、皇后は長安堂の裏庭で殺害されてから、しばらく玉壺樓に安置された後、裏山の鹿山で燃やされた。

高宗は翌年約10年間起居した乾清宮を離れロシア公使館に避難する。その時から乾清宮はその機能を喪失し、1909年、日本人により取り壊された。そこには朝鮮総督府美術館が設けられ、しばらくの間国立現代美術館に使われたが、98年に撤去された。李教授は「乾清宮の復元を契機に高宗の近代国家作りが再評価されるべきだ」とした。乾清宮の一般観覧は景福宮のオフィシャルサイトで予約を受け付けており、観覧は1日6回ずつ行なわれる。

王妃が起居していた坤寧閤玉壺樓(コンニョンハプ・オクホル)が18日に公開された。1895年の乙未事変(明成皇后殺害事件)当時、日本人暴徒らにより明成皇后(ミョンソン、1851~1895)が殺害された悲劇の場所でもある。





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