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朝鮮通信使400年終着地日光に行く…通信使は「元祖韓流」

2007.10.18 11:38
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朝鮮通信使は朝鮮の王が日本江戸幕府の最高権力者である将軍に派遣した公式外交使節だ。壬辰の乱が終わってから10年たった1607年から1811年まで計12回派遣された。このうち1636年、1643年、1655年の3回は江戸を経て栃木県日光まで訪問している。朝鮮通信使400周年を迎え、日光で朝日善隣外交の足跡をのぞいてみた。

「今から400年前、江戸幕府が朝鮮通信使を招待し、使節団が遠い朝鮮の地からここまで訪問しました。昔の歴史交流を記念する意味で今回の花火のテーマは“韓流”にします」

 
6日午後7時、日本の栃木県日光市日光運動公園。まっ暗な夜空に響くアナウンスに公園と隣近河川をいっぱいに埋めた3万の参加者が一斉に歓呼の声を上げた。しばらく後「パン」という音とともに花火が1時間続いた。時にはパーッと咲いた一輪のコスモスが描かれ、またあるときには鴨の雄大で壮厳な群舞が演出された。

日光市は毎年日光けっこうフェスティバルを開く。この日花火はそのプログラムのひとつだ。朝鮮通信使訪問400周年である今年はこれを記念して特別行事を用意した。花火の4テーマのうちのひとつも、朝鮮通信使韓流となったのだ。

日光市に住む在日韓国人たちが日光けっこうフェスティバルで楽しい農楽を披露している。写真=パク・ギョンドク記者



この日昼には同じ場所で房承煥(バンスンファン)の農楽公演も行われた。在日韓国人は農楽でにぎやかに盛り上げた後、日本の人たちにキムチを漬けてみせるサービスも行った。会場のあちこちには韓国伝統料理も提供された。400年前、日本に派遣された朝鮮通信使が数世紀を超えて現代版韓流として蘇ったようだった。日光市は日本を訪問した朝鮮通信使が3回最終着地とした所だ。

朝鮮通信使の日本訪問は壬辰の乱後、徳川家康の和親提議によって道が開かれた。1603年にも江戸幕府を開いた徳川家康は戦国時代、戦乱に疲れた日本に平和を定着させた人物だ。彼が統治理念として取り入れた朱子学の影響が大きかった。李御寧(イ・オリョン)元文化部長官は「徳川家康は戦争モデルを平和モデルに変えた人」とし「彼が日本に朱子学を持ちこんで覇道を文治に変えた」と述べた。李前長官は「この過程で朝鮮通信使は日本に派遣された文化使節団として徳川統治理念に力を与える燃料の役割をした」と話した。

日本との平和的な戦後処理のため朝鮮で決定的に貢献した人は四溟(サミョン)大師だ。四溟大師は壬辰の乱の1593年、義僧都大将として平壌(ピョンヤン)城奪還作戦に参加して功を立てた人物だ。1594年から1597年の間には賊将加藤清正の陣中を直接訪れ、4度も強化談判をした。壬辰の乱が終わった後、四溟大師は調整の命を受けて京都に行った。1605年、京都伏見城で徳川家康に会い、戦後処理問題と強化会談をして国交回復と朝鮮人捕虜の送還、通信使派遣などの道を開いた。

その後、江戸時代260余年間、12回にわたる通信使派遣で両国間の親善と文化交流は花を咲かせた。

通信使の主な任務は王の国書を伝えることだったが、両国の文化交流を促進する「元祖韓流」の役割もした。それで通信使は両国の文化・文物交流をもって中国を含む東アジア3カ国の平和共存に貢献したという評価を受ける。李元長官は「朝鮮通信使は260年間、日本に平和を維持させた韓流だった」と述べた。

日光市は朝鮮通信使の歴史的意味を称えるため、年末まで通信使が泊まった宿所に案内碑石を建てる作業を推進している。藤文夫日光市長は「通信使400周年を記念して今年、市と商工会議所で旅行団を募集、12月韓国を訪問する」とし「先祖の善隣交流を模範として私たちも両国交流を増やした方が良いと思う」と述べた。

花火を見守った寺岐大輔さん(会社員)は「通信使の趣旨をいかして両国の未来を担って行く学生交流を増やそうと主張したい」とし「子供たちがホームステイなどを通じて相手に対する理解を増やすことができる」と述べた。

この日、行事には栃木テレビが招待した韓国の高校生6人と教師2人も参加した。これらは箱根から日光まで通信使が進んだ道の一部を付いて歩きながら通信使の意味を振り返った。

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