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<朝鮮通信使400年>10.400年前の実利外交で韓日関係の未来見出そう

2007.07.28 15:46
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皇居。通信使たちは江戸城があったここの大手門という門を通じて幕府の将軍のいるところまで進み、朝鮮国王の親書を渡した。



朝鮮通信使の最終目的地は江戸だった。

 
1617年と1811年を除く10回は江戸城(現在の皇居)を訪れては国王の国書を伝達した。国書伝達の手続きは国家の自尊心がかかった問題だっただけに、両側は常に気を使った。しかし、通信使も江戸幕府も外交関係を棄損しないために互いに努力した。相手が重要であることをよく認識しているからだ。名分よりは実利を得るために妥協したという話だ。400年の歳月が去った今、両国指導部に投げかけるメッセージだ。

◆ついに到着した終着地江戸=静岡市の清見寺を出た通信使は富士山景観に感嘆しながら小田原に向かって箱根の峠を越えた。ここを通るとき、雪が降れば幕府は一晩中周辺の竹を切り倒して雪を覆った。そのおかげで通信使は滑りやすい雪道をまるで乾いた地を踏むかのように楽に通ることができた。

神奈川を経て通信使一行が立ち寄った所は品川だった。今はソニー、三菱自動車など大企業の本社が摩天楼のように並ぶ東京の副都心だが、当時、ここは江戸に入る前しばし休息を取るところにすぎなかった。通信使は品川で幕府3代将軍である徳川家光が創建した東海寺内の玄性院に宿を取った。

しかし東海寺には当時の姿がほとんど残っていない。三菱自動車代理店の隣の寺の入り口の石柱に「東海禅寺」という大きな字が刻まれているだけだ。当時5万坪に達したこの寺は大きな火事と都市計画で削られ、5千坪しか残っていない。それに寺を守る住職はサラリーマン出身で通信使の存在さえ知らなかった。

ついに江戸に入った通信使一行は大きな文化的衝撃を受けた。「都市は栄え、商人たちの船は水辺に列を連ねている。将軍の住む宮はすべて新しく建てたものだが、金銀飾りと樓閣の精巧さは言葉ですべて表現することができない」「服装は華やかで、簾幕は日の光に輝く。大阪や京都に比べて3倍は良く見える」(1719年申維翰の“海遊録”)

当時、日本はしょう油、油、酒、みそ、木綿、生糸などの商品生産が増え、前にも後にもない消費ブームを謳歌した時期で、その中心は江戸だった。通信使らは大阪と京都を経てすでに栄えた都会を目で見てきたが、江戸に到着してもっと驚いたのだ。

◆真心で迎接する=朝鮮通信使が入城する日、江戸は人でいっぱいだった。記録には江戸の住民の3人に2人は歓迎に出迎えたとある。1690年代にも人口が100万人だったから30万人超の人たちが江戸を埋め尽くしたという話だ。「左右に人を押しのけてわいわい騒ぐ多くの見物人に仰天した。表現不足の私はこれ以上筆で記せない」(1719年西紀金仁謙“日東壮遊歌”)

これのみではない。江戸幕府は通信使の快適な滞在のためにかなり気を使った。1748年5月21日江戸に入城予定である通信使のために江戸の司法・行政を統括した官庁である町奉行所は9カ月前の1747年9月、次のような告知文を発表した。「通信使が通る村は、近ごろ消失した家屋があれば翌年春まで建て直しを終えること。通る村の橋と木造門などは完全に直すこと」

新年になるとまた新たに告知文が出た。「(通信使が)通る道だけではなく、すべての所で放火に気を付けよ。失火も厳罰に処する」

通信使が江戸に到着する2週間前には詳しい内容まで記した住民行動の要領が発表された。「通信使の往き来する道は路地からあやしい人が飛び出すことのないよう、竹垣を作りなさい(これは後ほど“朝鮮垣”と呼ばれた)。風呂屋など大きな火をくべる店は通信使の入城と帰国する日、営業をしないこと。(通信使一行が泊まる)日本橋近所の魚屋は(においがするから)商いの時間を制限する」。

やがて江戸城に国書伝達のために入った通信使一行は、全国から集まった大名と幕府の人々の出迎えのもと、将軍を訪ねた。朝鮮通信使が幕府の最高責任者に謁見するように見せ、大名たちに新幕府の地位を高めようとするねらいも敷かれていた。

国書伝達の過程で通信使の最高責任者である正使を含む3人の使臣は4回おじぎをした。しかし、この問題をめぐって両側は最初、悩んだ。通信使らは「4回頭を下げることは臣下の礼儀であるから承諾することができない」と抵抗した。これに対して幕府側は「使臣は臣下ではないのか」と受けた。こうした名分による争いは結局「4回の礼は将軍にするのではなく、朝鮮国王の国書にすることだ」という絶妙の解釈で妥協した。

教授出身の大和田建太郎氏は「興をさまさない妥協の精神は今日、韓日リーダーたちが模範としなくてはならない点」だと話す。

徳川家の別邸として使われた浜離宮庭園の中島御茶屋。ここにかかっている立て板“狎鴎亭”は1711年、江戸を訪問した通信使が残したといわれる。



◆消えゆく跡=今日、江戸には通信使の足跡がほとんど残っていない。1711年以後、迎賓館として使われた西浅草の東本願寺も面積が大きく減った。寺の本堂も1923年の関東大地震で消失し、39年に新築された。城正弘総務部長は「通信使関連の問い合わせは過去何回もあったが、当時の姿を見せられる記録は全く分からない」と言う。この寺の各種案内文やパンフレットにも通信使との連関性を記述した文はなかった。

こうした中にも通信使の足跡を知る小さな手がかりは見つかった。徳川家門の離れ座敷として使われた浜離宮庭園の中島御茶屋が立てられたのが、通信使が江戸を訪問した1711年で、このときこちらの懸板の字を書いたのが通信使であるといわれている。この懸板は 1944年、東京空襲当時、茶屋とともに消失し、残されていない。

今年3月まで浜離宮庭園の管理所長を勤めた高橋裕一現上野公園管理所長は「中島御茶屋は狎鴎亭と呼ばれて記録にも揮毫が残っている。多くの情況から見た場合、そんな揮毫は通信使がここに立ち寄って残したのが明らかだ」と話した。

NHKの毛利和雄解説委員は「400年前、朝鮮通信使の精神を生かして現在と未来につなぐ努力が必要だ」とし「そんな点で当時通信使が通った道を韓日両国が世界文化遺産として共同指定しよう」と提案した。

◆協力=ソン・スンチョル江原大史学科教授 仲尾宏京都造形大学名誉教授

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