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【噴水台】国連事務総長

2006.02.15 18:59
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世界最高の公僕を選ぶのは異変の連続だった。1953年3月31日。国連安全保障理事会は、ダグ・ハマーショルド・スウェーデン外務次官を第2代事務総長候補に決めて、総会に推薦した。総会は通過儀礼だ。だが、当事者は何も知らなかった。翌日、この知らせに接した彼は、エープリルフールのジョークだと思ったという。彼は国際舞台で無名に近かった。36歳の時に中央銀行総裁を務め、欧州経済協力機構(OEEC)側から名前が知らされただけだ。

当時、カナダ・インドなど4カ国が事務総長への挑戦状を出したが、安保理の壁を越えることはできなかった。米ソの食い違う投票のためだった。ハマーショルドは英国とフランスが出した妥協カードだった。彼を一躍、国連の首長にしたのは、東西のどちら側にも立たない中立的人事という安保理の共感だった。しかし彼は57年の連任以降、偏向是非に巻き込まれた。ソ連は辞職勧告案を出した。免職まで要求した。親西側という理由だった。フルシチョフ共産党書記長は「中立的な国家はあるが、中立的な人はいない」と皮肉った。そして1人の事務総長を、東西陣営と第3世界代表で構成されるトロイカ体制に変えようと主張した。(『国際連合』、明石康)

1981年9月。安保理はまたどん底に落ちた。米中対立がその火種だった。当時、事務次長候補は3選に挑んだクルト・ワルトハイム(第4代総長)とタンザニアのサリム外相に圧縮された。サリムはアフリカ単一候補。米国はワルトハイムを、非同盟圏の兄貴分である中国はサリムを推した。投票に入りながら、米中はお互い神経戦を繰り広げた。米国はサリムに15回、中国はワルトハイムに16回も拒否権(veto)を行使した。常任理事国(P5)だけが持つ伝家の宝刀を抜いたわけだ。両候補が5年任期を半々に分け合う妥協案も効果はなかった。ペルーのペレス・デ・クエヤル外務次官(第5代総長)が急浮上したのはこの渦中だった。

今度はソ連が戸惑った。ペルーは‘米国の裏庭’という認識だった。結局、ソ連は、彼が駐ソ連大使を務めた経歴を勘案して棄権してしまった。国連史に残る接戦であり、漁夫の利だ。

潘基文(パン・キムン)外交長官が国連事務総長に名乗りを上げた。ミャンマーのウ・タント第3代総長当選以来、35年ぶりにアジア出身待望論が起きている時だ。好機だ。しかし韓国をめぐり利害が絡むP5の関門は容易でない。これを解決するために彼はフルシチョフの言葉を覆さなければならないかもしれない。「中立的な国家はないが、中立的な人はいる」と。

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