1674年2月、朝鮮(チョソン)第18代目の顕宗(ヒョンジョン)の母、仁宣王后(インソンワンフ)が亡くなると、政局が大きく揺らいだ。 王后の姑に当たる慈懿大妃(チャウィデビ、仁祖の第2夫人)が、息子の嫁の喪に際し、何カ月服すべきかが問題となったのだ。 今では服喪期間が政治の懸案になるなど笑い話にしかならないが、当時「礼」は今の憲法のように重要なものだった。
礼曹は最初「1年」と定めたが、丞相の反対にあって「9カ月」に減らした。 顕宗は不満だった。 「なぜこのように物事がすぐコロコロ変わるのか」。王の問題意識は政局に大きな波紋を投げかけた。 歴史上これを「第2次礼訟論争」という。 最終的に顕宗は「1年」と確定したが、その後も論争の火種はくすぶり続けた。 この論争は、15年前に「第1次礼訟論争」が起きた第17代孝宗(ヒョジョン)の死に端を発する。