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ある弁護士の死に台湾がむせび泣いた…83年生まれ「希少病の闘士」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2024.02.18 10:45
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希少疾患の患者と障害者の権益保護に向け活動してきた台湾の陳俊翰弁護士が40歳で死去した。

中央社など台湾メディアは15日、陳弁護士が11日に風邪による合併症で死去したと報道した。前日突然健康状態が悪化した後、救急室に搬送され治療を受けたが息を引き取った。

 
1983年生まれの陳弁護士は、台湾で「希望のアイコン」と呼ばれてきた。彼は1歳の時に希少遺伝疾患である脊髄性筋萎縮症(SMA)の診断を受けた。全身まひで常に車いすで特殊コントローラーを口で操作しながら生活しなければならなかった。大学時代には火災により足を切断する痛みも体験した。

だが決して学業をあきらめなかった。台湾の最高学府である国立台湾大学校に入学し法学と会計学を専攻した彼は、2006年に弁護士試験に首席合格し会計士資格も取得した。

卒業後は米国に渡りハーバード大学の法科大学院を経てミシガン大学で法学博士の学位まで取得した。米国で治療を受ける機会を得たが、陳弁護士は台湾に戻ることを決めた。似たような境遇にある患者のために活動することを決心したためだ。帰国後、台湾中央研究院法律学研究所で国際法や国際人権法などを研究しながら障害者に向けた政策立案に努力した。

陳弁護士はSMA患者が高額な治療剤の費用に耐えなければならない現実を批判した。国民健康保険が治療剤3種を給与対象に含んだが支給要件が難しい点を批判した。高い代金を払って治療剤を使った後に1円も返してもらえないということだ。陳弁護士の努力で国民健康保険は現在高額な治療剤を直接購入し各病院に提供することを検討している。

政界にも飛び込んだ。民進党は昨年、陳弁護士を立法委員(国会議員)選挙で比例候補16番として公認した。当時頼清徳総統候補は「痛みを踏み越え奇跡を起こした」と評価し、「民進党が市民社会と連帯するのに重要な役割をするだろう」と公認理由を説明した。ただ民進党は立法委員選挙での得票率が36.16%で13議席を確保するのにとどまり、陳弁護士の立法院入りは実現しなかった。

陳弁護士のそばにはいつも母親がいた。陳弁護士は母親がいなければ本のページもめくれなかった。続く病院生活で体と心が疲れた陳弁護士が「これ以上耐えられない」というメッセージを残した時も彼に生きる意志を悟らせた。息子のために米国と日本各地を歩き回り治療剤と病院を求めた。大学時代の火災事故で両足まで失い、人工呼吸器がなくては一睡もできない息子が自ら立ち上がれるよう守ってきた。

春節(旧正月)期間に伝えられた訃報に台湾社会は衝撃を受けた。民進党の頼清徳次期総統は「希少疾患にもあきらめなかった勇敢な闘士」と評価し、「台湾社会が彼の精神を記憶するよう願う」と話した。

民衆党の柯文哲主席もソーシャルメディアを通じ「これまでの努力に感謝しながら法改正を通じて希少疾患患者と障害者権利保護を実践したい」と明らかにした。国民党も「社会的弱者のために声を出した陳弁護士の精神を永遠のものにしたい」と声明を出した。陳弁護士のソーシャルメディアへの最後の投稿には弔意を示すネットユーザーのコメントが続いた。

陳弁護士の葬儀は遺族の意向で静かに行われた。陳弁護士の母親は「静かにお別れできるよう取材は控えてほしい」とソーシャルメディアを通じて知らせた。陳弁護士は16日に新竹市内の公園に安息の地を得た。彼の最後をともにしたい人たちのために27日に公開追悼式が行われる予定だ。

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    2024.02.18 10:45
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    人権と障害者の権益のために戦ってきた台湾の陳俊翰弁護士が11日に死去した。[フェイスブック キャプチャー]
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