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【コラム】差別・嫌悪まで認めないのか、礼儀と謙遜を備えよう=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.10.20 15:19
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「偽善よりは分かりやすい利己的なもののほうがいい」。これが最近のMZ世代の考えだという。事あるごとに「政治的正しさ(PC・Political Correctness)」にこだわるPC主義者を「プロブルピョンラー」(なんでもないことに私見を挟みながら敏感に批判する人々のこと)を過ぎて「PC虫」という軽蔑的呼称で呼んで久しい。

ソウル大学社会学科チャン・ドクジン教授は先日、ある新聞のコラムに「この5~10年間、韓国人の心に大きな変化が起きた」としながら「それが現れるのが政治的正しさに対する拒否感」だと書いた。「一言間違うと袋叩きにする」独善的PC主義に対する反感、PCが表現の自由を制限して文化的創意性を害するという反PC情緒の台頭だ。

 
韓国社会がPCを問題にするほど十分にPC的なのかということに対しては異見はあるものの、教祖的PCがPCの危機を呼び込むということだけは確かのようだ。PCとは社会的弱者とマイノリティに対する差別的言葉や表現を正そうとする哲学・運動を意味する。

◆文化戦争のような「PC論争」

PC論争は海外も例外ではない。ディズニーが来年公開する実写映画『リトル・マーメイド』は黒人歌手の女優ハリー・ベイリーを主人公にキャスティングして論争になった。原作の1989年同名アニメの白人人魚姫を黒人に変えたのが原作毀損だという不満があふれた。「デンマークを舞台とした童話に黒人人魚とはどういうことか」とし、過去黒人の配役を白人が演じた「ホワイトウォッシング」を遠回しにあてこすり「ブラックウォッシング」という表現も出てきた。

予告篇の中の黒人の顔をAI技術で白人に変えた映像も登場した。ディズニー側は「デンマーク『人』が黒人かもしれないので、デンマーク人魚も黒人かもしれない」と応酬した。ハリー・ベイリーはあるYouTubeの映像で「黒人少女が黒人人魚姫を見ることができるという意味」を強調した。事実、ディズニーこそがこれまで西欧童話の中の「白人のお姫様」という典型的イメージを作った張本人だ。2000年代中盤から出演陣のキャスティングとストーリーで多様性や包容・平等を強調し始め、全員が黒人俳優のブロックバスター映画『ブラックパンサー』、女性中心に新たに書かれた『スターウォーズ』シリーズ、多様な人種・文化・民族を主人公にしたアニメなどに拡大していった。

商業的にも成功した。PCに立脚したコンテンツの「書き直し」戦略は素材の枯渇に陥っていたハリウッドが見つけた出口戦略でもあった。PCがお金になるという公式が固まった。後発走者であるNetflix(ネットフリックス)も多様性の旗を揚げた。

反面、PC追求が行き過ぎて創意性を害したり完成度を低くしたりするという批判も一つ二つ提起された。1800年代ロンドン貴族社会を背景にしたNetflixロマンスシリーズ『ブリジャートン家』には黒人王妃、黒人貴族が主な配役として登場する。ファンタジー物だが最小限の歴史性を無視したという批判がある。PCトレンドに対するバックラッシュ(反動)という側面とマイノリティのつぎはぎ式キャスティング、作為的PCに対する反感が交錯する地点だ。

◆韓国ドラマ『ウ・ヨンウ』も袋叩きに

最近釜山(プサン)映画祭で開かれた映画振興会の多様性トーク「PC主義が創意性を凍りつかせるか」に出席した韓神(ハンシン)大学のシム・ヘギョン教授は現状況をこのように診断した。

「白人男性中心の『家族の価値』をテキストの中心に置いて保守的な世界観を再生産していると非難されてきたディズニーが多様性とマイノリティに対する感受性を表わしてPCを叫び始め、マーベル・シネマティック・ユニバースに多様な英雄と女性ヒーローが猛活躍する別の世界を予告して『PC-フェミニズム論争』が全地球的に台頭した」

一方、韓国では自閉障害に対する新たなアプローチで好評を受けたドラマ『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』がPC論争に巻き込まれたたことがある。競争関係である巨大ローファームの代表2人を女性に設定するなど女性配役の全面配置、レズビアンカップルのエピソード、俗物的なイデナム(ジェンダー平等性に敏感な20代前後の男性)キャラクター描写などが女性偏向だとし、「PCだらけのドラマ」という攻撃が出てきたのだ。

反対に「美しくて無害な」障がい者というイメージに閉じ込められて障がい者の現実を美化し、障がい者の俳優が障がい者を演技するなど「当事者性」が不足して全くPCではないという批判も出てきた。双方ともドラマそのものに対する評価よりもPCを前面に出した。

一方、前回の大統領選挙期間中、尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領は「障がい友」という単語を使って民主党から「障がい者とその家族の胸に短刀をさした」という批判を受けた。友だと言って配慮すること自体が障がい者に対する優越的見解を表わしていて差別だということだが、それが「胸に短刀をさすほど」なのか、厳格なPC適用を疑問に思う人々が多かった。また、全国障がい者差別撤廃連帯の地下鉄デモ方式を問題にすれば無条件で「嫌悪・反人権勢力」、差別禁止法の法理的問題を指摘すれば「差別主義者」という烙印を押してしまうことも過度なPCに疲労感を持たせる事例だ。

【コラム】差別・嫌悪まで認めないのか、礼儀と謙遜を備えよう=韓国(2)

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