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【コラム】日本思想家の「2つの顔」を同時に見よう

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.10.05 13:20
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人の行為には2種類があると主張した哲学者がいた。一つは自由・独立・創造・生命の行為で、もう一つは不自由・依存・反復・死の行為だ。前者が能動と個性の「する」なら、後者は受動と没個性の「される」だ。

彼は27歳ぐらいに書いた手紙で、善と「真の自分」を探すべき場所として、どこまでも深い「心の中」に言及している。悪口・妄念・卑しさの根本を切り、内心に深く分け入り、真の自分を得るところで善、いや真善美が具現されて生命も得るが、違うものに抑えられれば死だ。真の自分と一つになる時間が1分でも生命は永遠だと書いた。

 
以上は近代日本を代表する哲学者である西田幾多郎(1870~1945)が展開した生命哲学の核心だ。背景に日本の禅仏教もあった。心に疑惑が生まれればブッダやイエスのような心霊的偉人を求めなければならないとも言った(『全集』11.2005)。

西田は『善の研究』で一瞬の能動的動作を直接経験あるいは純粋経験と呼んだ。色を見て音を聞いた瞬間、熟練した音楽家が演奏する瞬間がまさに純粋経験だ。そしてゲーテが夢の中で直覚的に詩を作ったこと、宗教家が彼我合一を直覚したこと、モーツァルトが作曲するときに楽譜全体を直視したこと、これは直覚の瞬間の中にすでに全体や一般が宿っていることを示す純粋経験の事例だ。

画家が興に乗って画筆が自ずから動くことにも、私たちの一挙手一投足にも全人格が入っているなら、それは自由で、心は神格になって体は神像のようになるとも言った(1917、『全集』2)。瞬間の基準が完ぺきなので長さは違うこともある。ブッダとイエスは生涯、瞬間すなわち永遠を生きる人だ。

瞬間の中に完全を入れる行為は国境を越えて普遍的だ。チョ・ソンジンのように熟練した演奏者がドビュッシーの『月の光』を演奏する時、前の音は後に来る音のための練習ではない。完ぺきな瞬間の不連続の連続が全曲だ。

『月の光』の感想は安らかで美しい。新聞に文を書くことは推敲と批判を伴うので意識が散って純粋経験になりにくい。文中に全人格を入れようと努力するだけだ。欲情の瞬間は壊れやすく暴力を生みやすい。

西田は一切の限定や制限から自由な純粋経験の現在を絶対現在の自己限定と呼んだりもした。西田が瞬間動作や行為に注目し、西洋哲学の代表論理「一の多」を批判し、「一即多」(「多」ひとつひとつが「一の完全」)の論理を繰り広げた点で、彼は世界一流の哲学者と呼ばれるに値する。

ところで西田は1930年代日本が戦争期に突入すると天皇と国体を哲学的に擁護して、「絶対現在の自分限定として我国の国体というものは、このような立場での歴史的行為の規範だ。(…)大勝の真の精神は、東洋で今日、私たちの日本だけで維持されている」とした(1944、『全集』10)。

筆者は西田の歴史哲学を繰り返し批判してきた。治安維持法の圧迫もあったが、国体を擁護する国家主義は日本国民の自由と能動性を抑圧し、他国に対する暴力を正当化したためだ。ハンギョレ新聞は最近、「日本仏教の星、西田幾多郎と鈴木大拙、帝国主義を美化」という記事を掲載し(2021.8.5)、『仏教評論』(2021夏)に掲載された筆者の文をこのように引用した。「西田は、英国と米国に代表される西洋帝国主義に対抗するためにウィルソンの民族自決主義に反対し、東洋共栄圏の旗を高く掲げて天皇を中心に東アジア各国は団結しなければならないと書いた時、彼は帝国主義者に類似する者になった」。

正しい。だが、筆者は同じ文の中でこうも書いている。「西田哲学はわれわれに少なくとも2つの顔を持って近づく。一つの顔は生命の躍動を見て、もう一つの顔では帝国主義・日本を見る。真の自分という生命の泉から湧き出る絶対永遠の行為は救援のジェスチャーだ」。結論で「純粋と絶対の一瞬を真に経験して民族や国家を超越できる者だけが西田に石を投げることができる」とも書いた。

上述した記事は生命の一瞬に対して沈黙した。なぜそうしたのだろうか。韓国が西田の生命哲学は無視しても生存・生育に格別な支障はない。だが、自由民主主義という普遍的価値は違う。そのような価値を含めて、韓日が外交と経済でも共同の価値を見つけて共に実行するなら国益にとってさらに有利な場合もある。

日本の思想を扱う時、功績と過失を同時に話せるくらいに大韓民国はすでに独立しているし十分に堂々としている。

ホ・ウソン/慶煕(キョンヒ)大学名誉教授

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