【コラム】「生き残った者が勝者」朝鮮と日本の間の絶妙な実利外交(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.03.26 11:07
壬辰倭乱(文禄・慶長の役)を契機に朝鮮の人々の日本に対する怨恨と敵がい心は天を衝いた。倭乱以降、朝鮮の人々が最も憎悪した存在はもちろん侵略の元凶、豊臣秀吉だった。ところが朝鮮が秀吉に劣らず嫌悪した対象があった。それが対馬島だ。倭乱以降、朝鮮官僚の中には対馬島を征伐して報復するべきだと主張する人もいた。
日本の西端に位置した対馬島は辺境地である上に生活環境が劣悪な土地だった。島の大部分が山岳で覆われて土まで痩せていて農業生産は非常に貧弱だった。米をはじめ生活必需品を自給できなかった対馬島の人々は早くから近くの朝鮮に手を広げた。交易をしていた渦中にも朝鮮はもちろん中国沿海まで進んで倭寇活動、海賊行為を繰り返した。
倭寇の侵略に苦しめられた朝鮮は、強弱両面政策を通じて対馬島を統制しようとした。1419年〔世宗(セジョン)1〕、李従茂(イ・ジョンム)の指揮の下、軍用船227隻と兵力1万7000人余りを送り込んで征伐したのが強硬策の代表的な事例だ。だが、以後朝鮮は対馬島を優待して懐柔する方向に政策を転換する。島主宗氏に倭寇を取り締まり朝鮮を往来する日本人に対する統制任務を任せる対価として貿易独占権を与えた。また、毎年米穀数百石を下賜し、綿布・麻布・高麗人参・虎皮・豹皮・鷹などあらゆる物資を供給した。事実上、対馬島を養っていたようなものだった。