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国宝だけで17点「百済ブラックボックス」…12時間の超拙速発掘だった武寧王陵=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2021.02.24 13:46
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--1971年百済第25代武寧(ムリョン)王の墓が約1500年ぶりに発掘されてからちょうど半世紀が流れた。「韓国考古・歴史学を変えた記念碑的事件」「繰り返されてはいけない失敗の鏡」として、同時に照明が当てられた武寧王陵発掘を通じて、文化財発掘および保存科学50年史を3回にかわたって振り返る。--

「武寧王陵からは計17点の国宝が出土しましたが、単一墓からこれほど多く出てきたことはありません。その中で最初に挙げるのは支石です。三国時代のどの墓にもなかった遺物の絶対編年を提示することにより、考古学と考古美術史発展の決定的な契機になりました」

 
今年上半期、武寧王に関する一般向け歴史書物『終わらない神話』を出版する予定の公州(コンジュ)大学のチョン・ジェユン(史学科)教授の説明だ。1971年7月5日、排水路の工事作業員のスコップの先が墓壁にあたらなければ、百済史、いや三国史全体がずっと暗黒のままだったかもしれないということだ。ここでいう支石は国宝163号として、墓支石や陵石とも呼ばれる石板のことだ。土地を買って墓を使うという内容も入っており、買地券とも呼ばれる。武寧王陵では王と王妃の支石がそれぞれ出てきた。王の支石には「寧東大将軍百済斯麻王」という名前と共に、癸卯年(523年)に死亡したとの記録も記されている。出生、在位、死亡年度がこのようにはっきりと残されている三国時代の古墳は武寧王陵が唯一だ。武寧王陵と天馬塚(チョンマチョン)古墳の発掘(1973年)に相次いで携わったチ・コンギル元国立中央博物館長は「新羅(シルラ)武烈(ムヨル)王陵もあるが、実際の位置が特定あるいは発掘されたわけではない。考古・歴史学系が認める三国時代『陵』は武寧王陵だけ」と強調した。

◆冠飾りや金の耳飾りなど副葬品が数千点

武寧王陵は日帝強占期の時に発掘・盗掘されなかった唯一の百済古墳でもある。公州百済遺跡は日帝強占期の公州高等普通学校の教師だった日本人の軽部慈恩(1897~1970)によりくまなく暴かれた。軽部は公州を離れるころの1940年、自ら「百済古墳1000基以上を調査した」と話したりもした。崇実(スンシル)大学のチェ・ビョンヒョン名誉教授は「新羅の積石木槨墳は遺跡荒らしが壊さず遺物を取り出すのが難しい反面、百済は石室墳でなければ●(土へんに専)築墳(煉瓦墓)と入口が一度露出すれば暴かれやすい」と説明した。ところが松山里(ソンサンニ)6号墳の横に位置する武寧王陵は彼らの目を避けて1500年ぶりに奇跡的にその実体を現した。

そのまま保存されていたとしても百済古墳は相対的に副葬品が少ないほうだ。それでも武寧王陵からは国宝17点を含む遺物数千点が次々と出てきた。特に薄い金版を自由自在に駆使した金属工芸は三国の中でも卓越した境地だ。似ているように見えても王の冠飾りは幾層もの燃え上がる花火の形が表現されているが、王妃の冠飾りはまるで今咲いたばかりのレンゲの花のような形だ。計5組の金の耳飾りと2個の金の首輪、神獣鏡と銀の托盞(杯と杯台)、銀の腕輪などは「質素だが見苦しくない(倹而不陋)」という百済美の真髄を表わしている。

◆6世紀の韓日中貿易・芸術交流を明らかに

このほかのさまざまな副葬品は当代の東アジアの貿易交流に重要な示唆点を与えている。チョン・ジェユン教授は「中国製の青磁・銅銭束、日本産コウヤマキを材料とする棺、東南アジアの原料を使った玉遺物などを通して6世紀の百済がどのような位置づけにあったか再確認することができる」と説明した。ソウル大学のクォン・オヨン(国史学)教授も「6世紀前半は百済、梁(中国)、日本の間で類例がないほど交流が活発だった時期」としながら「韓日中、さらには東南アジアまで学問と芸術が交流した形跡が武寧王陵にそのまま残されている」と指摘した。2015年国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界文化遺産に松山里古墳群を含む百済歴史地区が登録されたときも、このような「百済の遺物の世界性」が積極的に強調されたことはもちろんだ。国立公州博物館のチェ・ジャンヨル学芸研究室長は「古代の歴史書物である『三国史記』『三国遺事』が新羅中心に書かれたうえ、百済の遺跡が極めて少ないほうだが、武寧王陵のおかげで百済史の研究が飛躍的に深まった」と強調した。

しかし、武寧王陵の発掘には光と闇が共存する。墓内部の遺物撮影から最終収拾までわずか12時間しかかからなかった「超高速発掘」のためだ。当時ですら、自分たちの力だけで大規模古墳発掘をしたことなかったうえ、「盗掘されなかった百済王陵」という大事件の前にメディアや世論はもちろん、発掘団も冷静さを保てなかった。「掃き持ち帰った」という表現がしっくりくるほどの速度戦だった。このため、注意深く発掘していれば逃さなかっただろう数多くの古代史の糸口がそのまま失われた。50年経った今でも武寧王陵が「反面教師」の代表事例に挙げられる理由だ。反面、そのような敗着のため、そのすぐ2年後の慶尚北道慶州(キョンサンブクド・キョンジュ)の天馬塚発掘の時から遺跡調査のABCが確立された契機にもなった。チェ・ビョンヒョン名誉教授は「当時の性急で不十分な遺物保存処理に対する反省から、その後保存科学に対する関心と投資が増えることになった」としながら「反省は反省としつつも、新たな観点からの探求によって、さらに多くの『古代史の秘密』を明らかにしなければならない時だ」と話した。

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    2021.02.24 13:46
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    武寧(ムリョン)王陵発掘は排水路工事の途中で偶然行われた「大事件」だった。写真は発掘初期に墓の入口の土砂を除去する様子。[写真 国立文化財研究所]
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