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【時視各角】ムヒカ元ウルグアイ大統領に学べ=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2020.10.29 11:13
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ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領を今日の大韓民国に召喚する。彼は大統領を辞める時のほうがより大きな拍手を受けた。52%の支持率で当選したが、退任時の支持率は65%だった。下り坂の文在寅(ムン・ジェイン)大統領は見習ってほしい。秘訣は大きく6つある。

第一、国民感情を読み、共感した。ウルグアイのサッカー英雄ルイス・スアレス事件がその代表だ。2014年ブラジルワールドカップ(W杯)のとき、国際サッカー連盟(FIFA)はスアレスに重い懲戒を下した。罰金10万スイスフラン(現レートで約1147万円)、Aマッチ9試合出場停止、4カ月の選手資格停止。スアレスが抜けたウルグアイは16強から脱落した。ウルグアイ国民は「主催国ブラジルの決勝進出のための懲戒だ」として怒り狂った。政治や政治的なこととは距離が遠い事案だったが、ムヒカ大統領は国民のこの怒りを無視しなかった。彼は何度も世界に対してFIFAの懲戒がなぜ不当だったのかを伝えた。

 
「今回のことはサッカー史上、最悪の瞬間として記憶されるだろう。(中略)われわれはウルグアイ国民の名で彼を迎えに行こう。彼に慰労の抱擁をしよう」(2014年6月26日ラジオ演説)

この演説を通じて、ムヒカは深い痛嘆と集団的失望感に包まれたウルグアイ国民の感情を読み取る能力を見せた。(『ホセ・ムヒカ 静かな革命(Jose Mujica. La revolucion tranquila)』)

BTS(防弾少年団)が中国ネットユーザーの不当な攻撃を受けた時、西海(ソヘ、黄海)で国民が北朝鮮軍に処刑・焼却された時、国民的挫折と失望感の前に文大統領は沈黙した。

第二、大統領宮を快く手放した。大統領選の公約でもなかった。ホームレスに宮を開放し、ムヒカは自身の農場住宅で暮らした。5匹の犬、2人ほどの警察警護員、1987年型フォルクスワーゲン・ビートル…。このようにして彼は「世の中で最も貧しい大統領」、最も身近な大統領になった。文大統領は「光化門(クァンファムン)大統領」公約を引っ込めた。

第三、競争者・反対者を包容した。大統領選の競争者であったダニーロ・アストリ経済財政長官を副大統領に任命した。ゲリラ時代、自身を13年間監獄に閉じ込めて拷問した軍部に報復しなかった。文大統領は以前の政府はもちろん、50年、100年前の積弊まで捜し出して清算に次ぐ清算の真っ最中だ。

第四、経済は専門家に任せた。アストリ副大統領は前任のバスケス大統領時代から経済の指令塔だった。左派経済学者アストリはチリ式新社会主義を標ぼうするものの、実用主義経済政策を優先した。マクロ経済安定、財政健全性重視、米国とのFTA(自由貿易協定)を主張した。南米を襲った左派ポピュリズムに振り回されなかった。経済は4%ずつ成長し、1人あたりのGDPが南米最高を記録し、貧困率は落ちた。文大統領は家系図にもない「所得主導成長」を強行し、洪楠基(ホン・ナムギ)経済副総理には「国家負債40%の根拠は何か」と詰め寄り、財政健全性を事実上あきらめさせた。

第五、貴族労組に言うべきことは言った。左派公共労組はムヒカにとっては親政府側勢力だ。それでも彼は公共労組が「想像もできない特権を享受して君臨している」と指摘した。ムヒカは「ウルグアイ国民は全員公企業への就職を望んでいるのに、なぜ数人しかなれないのか」とし、終身雇用ではなく数年後ごとに交代して仕事をしようと提案したりもした。文大統領は「公共部門非正規職ゼロ時代」を宣言したが、その結果、公企業就職の門は極度に狭くなり、ついに仁川(インチョン)国際空港公社事態を呼んだ。「開天節(建国記念日)集会非寛容」警告すら、全国民主労働組合総連盟(民主労総)集会前には沈黙した。

第六、国民と常に疎通した。記者の腕を取ってウインクもした。質問の壁を作らなかった。妻が料理して、直接マテ茶を入れて飲み交わした。文大統領は24時間の日程を公開して報道機関と活発に疎通すると約束したのに、3年間で記者懇談会が開かれたのは指を折るほどだ。

そのムヒカが今月20日、政界から引退した。85歳。「私の庭では、もう何十年も憎しみは育てていない」という彼の別れの言葉は改めて世界の人々の心を打った。その大きな響きがぜひ青瓦台(チョンワデ、大統領府)の塀を越えて文大統領の耳にも届くよう願う。

イ・ジョンジェ/中央日報コラムニスト

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