【グローバルアイ】ワシントン大韓帝国公使館が少女像の安息の場になってくれれば
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.08.16 15:01
米ワシントン大韓帝国公使館は14日から、130年前に朝鮮独立を維持しようと奔走していた当時の資料を公開する特別展を開いた。2016年4月、2階の公館職員執務室暖炉の復元工事途中に見つかったハガキや年賀状、米国大統領が通っていたカベナント教会の資料も公開された。一種のタイムカプセルから出てきた資料といえよう。この中の一つが今はコミュニティカレッジとなったダンビル軍事学校(Danville Military lnstitute、1890~1939)のハガキだ。第4代公使の李采淵(イ・チェヨン、1890~93)が富国強兵のために米国軍事教官を招へいしようと自らここを訪ねて持ってきたものだという。
ダンビルはバージニア州西南端に位置し、今でも自動車で4時間30分を要する。このような遠方まで足を伸ばしたのは、清軍を追い出すために米軍20万の派兵を成功させるよう指示した高宗(コジョン)の密命のためだった。初代公使の朴定陽(パク・ジョンヤン、1887~88)がクリーブランド大統領と単独会談した後、清の圧力で11カ月で召還されると、第2代・李夏栄(イ・ハヨン)-第3第・李完用(イ・ワンヨン)-第4代・李采淵までこのことにかかりきりになった。
2代の李夏栄署理公使の時に成功しそうにみえた。第1回として国務部の助けを借りて仁川(インチョン)・釜山(プサン)・元山(ウォンサン)港を担保にニューヨーク銀行から当時金額200万ドルを借り、上・下院に派兵案表決まで送ったためだ。だが、モンロー主義(不介入原則)により朝鮮に対する派兵案は否決されてしまう。李夏栄が連日宴会を開いてロビー資金として使った16万ドルを除く残金を返却し、派兵外交は水泡と消えた〔文一平(ムン・イルピョン)、『対米関係五十年史』〕。その上、朝鮮独立維持のために米国の助けを得ることに失敗した李夏栄(中枢院顧問)と李完用(乙巳五賊)は後に親日派に変身して主権を日帝に渡すその先鋒に立った。