麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.03.07 07:32
だが、納骨堂の上に立てられた慰霊碑には「朝鮮人」という字さえなかった。当時麻生セメント側と交渉を行って慰霊碑と納骨堂を用意したが、麻生セメント側では最後まで「朝鮮人」と刻むことを拒否したという。パク氏は「今でも毎年麻生セメントの関係者が慰霊祭を行っているが、特に朝鮮人労働者を称えるものではない。当時の歴史を知る人が残っていない」と話した。
太平洋戦争(1941年~45年)末期になると筑豊地方の朝鮮人労働者の数が急増する。日帝が国民徴用令を朝鮮にも適用し始めたためだ。当時10代の中・高校生まで徴兵した日帝は不足した労働力を朝鮮人、中国人から賄わなければならなかった。