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吉田首相「韓半島海域の機雷除去は戦闘行為…秘密に」(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2015.09.28 13:34
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日本が韓国戦争(朝鮮戦争)当時、韓半島(朝鮮半島)で米軍が主導した国連軍を支援し、実質的な軍事作戦に該当する活動を広範囲に展開していたことが、国内外の各種資料で確認された。

1945年8月の太平洋戦争敗北後、日本軍は韓半島から撤退した。しかしわずか5年後の50年に旧日本軍人をはじめとする多数の日本人が韓半島に再び入って軍事作戦に参加したのだ。

 
中央SUNDAYは大久保武雄元海上保安庁長官の回顧録『海鳴りの日々 ― かくされた戦後史の断層』(1978年)、日本政府の『海上保安庁50年史』(1998年)、日本防衛研究所・谷村文雄研究員の日本特別掃海隊活動関連の学術論文、日本の学者・大沼久夫氏が日本外務省外交資料館で発掘した国連軍総司令部(GHQ)文書、南基正(ナム・ギジョン)ソウル大日本研究所教授の東京大博士学位論文(『朝鮮戦争と日本』)、ヤン・ヨンジョ国防部軍事編纂研究所軍事部長が発掘した米国立文書記録管理局(NARA)の大戦戦闘関連記録、朝日新聞の企画報道、MBC(文化放送)プログラム「今は話せる-6・25日本参戦の秘密」(パク・ゴンシク演出)などの資料を総合分析し、日本の韓国戦争関連行跡を再構成した。

最近日本でも1950年の警察予備隊の組織と訓練の経験を扱った『反乱兵の伝言』という元隊員の自伝的小説が登場し、韓国戦争との関連性が新たに話題になっている。これらの内容を総合すると、第2次世界大戦後に日本の本土を占領した米軍によって解散した旧日本軍人と現職公務員、そして多数の民間人がさまざまな方向から韓国戦争中に韓半島で展開された軍事作戦に投入されていた。かつて米国議会で議論された公式戦闘兵の派兵はなかったとはいえ、日本人は小銃を持って戦闘もした。南基正教授は「韓国戦争は北と中国・ソ連に対抗し、韓国と米国・日本が一緒に戦った戦争だった」と規定した。

◆日本、敗戦から5年後に再武装へ最初の一歩

1950年6月25日午前4時、金日成(キム・イルソン)が対南侵略挑発をすると、李承晩(イ・スンマン)大統領は米国政府と日本にあった米極東軍司令部に緊急支援を要請した。27日、日本に駐留していた米極東海軍・空軍が韓半島に出動し、30日には4個師団規模の在日米地上軍が入った。

戦争勃発初期、日本は韓国から撤収した米国人など2001人の緊急避難所の役割をしたが、その他の積極的な役割はできなかった。45年8月15日の日本の降伏後も名目上天皇制が維持されたが、GHQ司令官のダグラス・マッカーサー元帥が日本の実質的な統治者だった。特にGHQを主導した米極東軍司令部は46年11月、大日本帝国憲法を修正し、「戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認」を盛り込んだ新しい日本国憲法を作った。

こうした状況で戦争が発生すると、マッカーサー司令官は韓半島に出動した在日米軍の空白を埋めるという名分で7月8日に日本警察予備隊を創設した。警察予備隊は1952年に保安隊を経て54年に事実上の軍隊の自衛隊となった。第2次世界大戦の敗戦からわずか5年で日本再武装への最初のボタンを米国が掛けたのだ。

6月27日に国連安保理で国連加盟国の韓国支援決議案が通過し、7月8日に国連軍が創設されると、日本は相当な圧力を受けた。しかし平和憲法の制約のために悩んだ当時の吉田茂首相は、北朝鮮軍の攻勢で国連軍が釜山(プサン)一帯まで攻め込まれると、8月29日にはマッカサー元帥に「必要ないかなる施設と努力も提供する用意がある」と伝えた。これを受け、九州飛行場と佐世保海軍基地が米軍の後方基地の役割をした。

9月15日の仁川(インチョン)上陸作戦成功を契機に、日本人は韓半島にさらに直接的に足を踏み入れることになった。日本海軍と陸軍将校出身の3人は仁川上陸作戦が始まる前に現地を偵察し、仁川港の水位が最も高く上陸作戦をしやすい時点を9月15日と知らせた。 (中央SUNDAY第446号)


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    2015.09.28 13:34
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    李承晩(イ・スンマン)大統領(左)が1950年2月18日にマッカーサー連合国最高司令官の招請で日本を訪問し、羽田空軍基地で国旗に敬礼している。(写真=国防部軍事編纂研究所)
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