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【コラム】重明殿から眺めた独島(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2012.08.28 16:01
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徳寿宮石垣道から貞洞劇場のそばの路地に入ると重明殿がある。2年前にここを補修した後、乙巳勒約(第2次韓日協約)が締結される過程の写真資料を展示している。1904年に徳寿宮に大火災が発生し、高宗は臨時にここに移った。このため翌年の1905年、ここで乙巳勒約が締結された。私たちには恥ずかしい歴史の現場だ。

日露戦争で勝利した日本は韓国を保護国とするため、伊藤博文を天皇の特使として派遣した。高宗と大臣の反発は激しかった。数日間の懐柔と脅迫の末、運命の日が近づいた。11月17日、この日は朝鮮の歴史で最も長い一日だった。日本は日露戦争後、ソウルに残留した1個師団兵力を王宮をはじめ、市内のあちこちに配置し、南山(ナムサン)では威嚇用の大砲を発射した。林権助公使は午前に朝鮮の閣僚大臣を公使館に呼んで説得した後、高宗に謁見しようとしたが拒否された。晩に伊藤は長谷川好道司令官を同行し、武装軍人とともに重明殿に踏み込んだ。脅迫が続いた。ついに午前1時、大臣に一人ずつ賛否を尋ね、賛成5人、反対3の過半数として条約の可決を宣言した。もちろん高宗の裁可なく奪取した印章で条約文に捺印した。

 
乙巳勒約が独島(ドクト、日本名・竹島)と何の関係があるのか。1904年2月に済物浦(チェムルポ)でロシアと日本の軍艦が艦砲射撃を交わしながら始まった日露戦争は、1905年5月、独島の東南側の海上で日本艦隊がロシアのバルチック艦隊を全滅させたことで終わった。独島が外の世界に初めて知られたのはまさにこの時だ。日本が乙巳勒約を強要できたのは、この海戦の勝利のおかげだった。乙巳勒約は独島とこのようにつながっている。当時、朝鮮は「国」ではなかった。治安も軍隊もすでに日本に奪われた。済物浦で海戦が始まると、高宗は占い師の話を聞いて宮廷の柱に大きな釜を埋め、クッ(祭祀)をしてロシアが勝つことを祈るくらいのことしかできなかった。

独島問題にまた火がついた。独島を守るために今の私たちに必要なことは何か。重明殿は私たちに何を語っているのか。「独島は韓国の領土」といくら叫んでも、私たちの領土を守る能力がなければ効果はない。高宗が大韓帝国を助けてほしいと哀願しても効果がなかったように。独島が韓国の領土ではないという国民は一人もいない。したがって国内キャンペーンはもうやめよう。その代わり私たちは今後どうするべきかという話が出てこなければならない。日本が外交力に出れば韓国も外交力で対応し、日本が国際広報戦に出れば韓国も広報戦で対応しなければならない。日本が軍事力で出てくらば私たちはどうするべきか。


【コラム】重明殿から眺めた独島(2)

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