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【コラム】安重根の遺体、奇跡が見つけてくれるのか

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2009.09.14 18:12
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キム・ヨングァン元議員(3選)は78歳だ。彼は最近、健康の危機に処した。一時、ひどくやつれ、知人たちが心配した。闘病の末に気力は回復したが、以前のようではない。そんな彼が明日、中国旅順に飛ぶ。近くの大連まで合わせればそこに行くのは10回目だ。彼の人生で旅順という名は旅に行く運命的順序のようだ。見知らぬ地、大陸の片隅の安重根(アン・ジュングン)義士が彼を呼ぶのだ。

安義士は1909年10月26日、伊藤博文を撃ち、翌年3月26日、旅順監獄で死刑にされた。刑務所当局は近く共同墓地に遺体を埋めた。安義士は解放されたら祖国に埋めてくれという遺言を残した。祖国は解放されたが、遺言はまだ異国の下にいる。昨年3~4月、建国後、初めて韓国政府は発掘作業をした。遺体を見つけることはできなかったが、キム元議員は落胆しなかった。発掘団が掘った監獄の裏は彼が追跡してきた所ではないからだ。叩いて叩けばドアが開くとしたら、彼はいつか空が門を開けて安義士の遺体を見せてくれると信じている。

 
キム・ヨングァンが安重根に会ったのは62年前の1947年だ。水原農高の生徒キム・ヨングァンは学校の演劇「義士安重根」で安義士役を演じた。すべてのものが不足していた時代なので、マントの代わりに毛布をひっかけ、おもちゃのピストルすらなく、木のパチンコを使わなければならなかった。演劇は貧しかったが、安重根という名前は16歳の青年の胸に深く刻み込まれた。年が50を超えても国会議員キム・ヨングァンは本格的に遺体を探しはじめた。まず彼は米国西部に飛んで安義士の孫ウンホさん(心臓専門医)に会った。長年の説得の末、彼は遺体を見つけて奉還してもいいという委任状をもらった。その後、墓所の正確な位置を知る人をうわさをたよりに捜した。解放前、数回墓所を参拝したことがあるという人が現れた。彼が記憶している場所は監獄の裏手ではなく500メートルほど離れた野山だ。証言者は「数十基のうち安義士の畝があり、角材に刻まれた名前で「グン」の字が消されていた」と話した。その証言者は今、死亡していてもういない。

証言が出たが、キム・ヨングァンは直接旅順へ行くことができなかった。80年代の中共(今の中国)は、韓国と国交がなかったのだ。彼は旅順へ行くことができる人を探した。在米・在中同胞たちに遺体を捜すように頼んだが、特に進展はなかった。4年余りの努力で87年、彼にいよいよビザが発給された。旅順監獄の近くは軍事統制区域だったがキムヨングァンはやみくもに入って行った。中国公安につかまり、罰金を払って釈放された。彼は再びしのび込んだ。安義士の檻と死刑場を発見し、証言者の略図を持って墓地がある所を目に刻んでおいた。監獄が門を閉めて60年が経った。だから主人のない墓は消えてしまったのかもしれない。それでも彼はあきらめなかった。20年の間、旅順へ行ってはまた行って、そして明日もまた行くだろう。

死ぬ前にしたいことを書いておいたものをバケットリスト(bucket list)という。そんなタイトルの映画(邦題:最高の人生の見つけ方)で、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが主演を演じた。キム・ヨングァンのバケットリストは安義士の遺体を見つけることだ。解放後、長年の歳月で数えきれないほど多くの雨風に墓地は打たれたはずだ。それでも奇跡は起きないか。キム・ヨングァンの足が届く先に安義士の墓地があったらいいだろう。もし安義士がこれからは土中から出る決心をしたら、初めて会う韓国人がキム・ヨングァンだったらいいだろう。彼が肉体的危機を乗り越えることができたのもバケットリストのおかげではないか。旅順に発つ彼を見ながら自分に問うてみる。「遠い後日、お前のバケットリストは何だろうか」

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