第2次世界大戦当時に犠牲になったオーストラリア軍人は2万3400人余。 米軍犠牲者の10%にもならず、中国軍と比べると1%程度だ。 しかし日本戦犯を最も厳格に追及した国はオーストラリアだった。 穏やかな雰囲気の東京戦犯裁判とは違った。 オーストラリアは‘戦犯’のほかにも‘食人行為’‘遺体切断’など35項目の犯罪をすべて処断した。 日本軍の反人倫的罪悪があらわになった。 戦犯の多くが絞首刑となった。 ここでは一枚の写真が決定的となった。 ニューギニアを占領した日本軍が戦争捕虜の首を残酷に切る場面が写されていた。 最後まで追跡したオーストラリア政府は、斬首された犠牲者がオーストラリア軍のレオナルド・シフリット上士であることを確認した。 この明白な物証の前で日本は沈黙した。
半面、東京では日本戦犯らが必死に粘った。 1938年の南京大虐殺がその代表例だ。 現場に残ったアメリカ人医師ロバート・ウィルソンは「ダンテが話した地獄が血と強姦で再現されている」という日記を残した。 再判定も判決文を通じて20万人以上が犠牲になったと認めた。 しかし戦犯らは「民間服で偽装しゲリラ戦を繰り広げた蒋介石軍と民間人を混同して生じた不祥事」と主張した。 その後、日本の極右勢力はこの発言を盲信した。 中国が提示した写真は「出所が疑わしい」と言いながら顔を背け、「最初から虐殺はなかった」とも語った。 少なくとも一つの写真集が発刊されるまでは。 日本軍の運転兵として南京に投入された村瀬守保の『私の従軍中国戦線』がそれだ。 村瀬が自ら撮影した殺戮現場の写真には生々しい現場のメモまでがついている。