주요 기사 바로가기

【時視各角】トウ小平はなぜ朴泰俊に会おうとしたのか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2016.08.19 15:35
0
8月24日は韓国と中国が修交してから24年になる日だ。今は中国が韓国を食べさせているかのように威張っているが、1990年代は韓国の助けを切実に望んでいた貧国だった。中国近代化の父・トウ小平は修交の年だった92年夏に上海迎賓館に当時の朴泰俊(パク・テジュン)浦項(ポハン)製鉄(現ポスコ)会長を招いた。朴会長の生前の回想によればトウ小平は定刻の深夜0時に現れて韓国の飛躍的な経済発展、浦項製鉄の先導的な役割について話すと「中国にあなたのような製鉄所を作りたいので助けてほしい」と要請したという。面談時間は約40分。

▼トウ小平(当時88歳)「朴正熙(パク・チョンヒ)大統領が韓国の産業化を成功させた。朴大統領の近代化の哲学を聞きたい」

 
▼朴泰俊(65)「私は5・16軍事クーデターの時に朴大統領の秘書室長だった。私たちは経済開発5カ年計画を作った」

▼トウ「私が日本に行って稲山嘉寛・新日本製鉄会長から聞いたが『製鉄所はお金や技術で作るのではない。人が作る』と言っていた。助けてほしい」

▼朴「私たちは産業化によって国を守った。北朝鮮の攻撃を防ぐために浦項に、欧米に産業団地を作った。中国が我が国のように近代化に進み続けることができるか」

▼トウ「その問題は心配するな。私が死んでも近代化路線を覆す者はいない。私の後の指導者まですべて列を作っておいた」

朴泰俊会長は、のどにぐっと込み上げるものがあった。6・25韓国戦争(朝鮮戦争)時に大尉階級として拳銃1袋持って清津(チョンジン)まで上がり興南(フンナム)から撤退した彼であった。どれほど多くの人が死んで国が疲弊したのかを考えれば、戦争を起こした金日成(キム・イルソン)に歯ぎしりする思いだと語っていた朴会長だった。トウ小平に「なぜあなたは6・25時に金日成を助けたのか」と鋭く言い放ちたかったが、とても言葉が出なかった。

朴会長は帰国後、トウ小平がよこした宝山鋼鉄の謝企華(当時49歳)副社長に浦項・光陽(クァンヤン)工場を細かく見学させた。10回ぐらいは来て行ったという。製鉄所の設備図面、会社規定集などを受け取った。朴会長は「国家の戦略技術を流出させることではないのか」という私の質問に「私も浦項製鉄を初めて作った時、日本の稲山社長と新日本製鉄所を数多く訪れて思う存分、技術を得てきた」と答えた。彼はトウ小平は江沢民主席に続き胡錦濤次期主席まで最高指導者の列を作っておいたようだと記憶していた。


【時視各角】トウ小平はなぜ朴泰俊に会おうとしたのか(2)

関連記事

最新記事

    もっと見る 0 / 0
    TOP