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【噴水台】韓国のリゾート施設崩壊事故、もし和村村長のような鋭い洞察力があったなら…

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2014.02.21 15:30
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当たり前の声は、当たり前なので注目されることがない。たびたび言えば世情に疎いとされて、さらに言えば非難される。「慧眼」と「凡眼」の別れ目がこの部分だ。

例を見てみよう。東日本大震災の時の岩手県普代村の話だ。人口3000人前後のこの小さな漁村は、隣の都市で数千人の命を奪った津波に、ただの1人の犠牲者も出さなかった。半世紀前の和村幸得村長の「当たり前の声」のおかげだった。

 
1960年代の防潮堤工事の時に和村村長は高さ15.5メートルの防潮堤を主張した。近隣で最も高い防波堤が10メートルだった。「万里の長城をつくるのか」という嘲笑があふれた。それでも主張を曲げず、ついに貫徹した。防潮堤が巨大な姿を現わしながら予算浪費という批判もあふれた。

当たり前の声がいつもそうであるように、和村村長の論理は簡単だった。明治時代の時に高さ15メートルの波が襲ってきたことがあるということだった。一度起きたことは再び起きるかもしれないではないか。あまりにも当然の声であった。ショーペンハウアーがこれを一刀両断で表しているが、読むたびに自然と居住まいを正す思いだ。「すべての真理は3段階を経る。最初は嘲弄を受け、次は激しく反対され、結局は自明のこととして受け入れられる」。

当然の声が自明の真理になるには、和村村長のような鋭い洞察力と勇気が必要だ。それがなかったために慶州マウナリゾート体育館の崩壊事故は「覆水盆に返らず」となった。講堂の屋根に積もった雪を心配して眺める目があっただろうし、大雪の中で行事を強行すべきなのかという考えもあったはずなのに、嘲弄と批判に恐れをなして自ら凡眼になってしまった。

事故の何日か前に各大学に送った教育部の公文書があったので、さらに遺憾の思いが加わる。そこには江原道(カンウォンド)・慶尚北道(キョンサンブクド)の大雪特報も、問題になった「サンドイッチパネル屋根」も、除雪と使用中止の要請も全てあった。半分ほど開いていた知恵の目をわざと閉じてしまったのだ。

慧眼というのは、不可能なことを成し遂げた奇跡ではない。できるだけの最善を尽くす時に自ずと目覚めるものだ。考えとしては、30メートルの防潮堤をこしらえて津波は忘れて生きればそれだけのことだ。すべての建物にフィンランド式の熱線屋根を覆って風景を楽しむこともできる。だが、問題はいつもお金だ。限られた資源を効率的に使って最上の効果を得なければならないのが現実ではないのか。

普段、雪が多くない慶州に熱線屋根は明らかに浪費だ。だが、その命題が真理であるのは、普段とは違う異常気象にいつも目を開いていなければならないという前提があった時だけだ。慶州や雪の問題だけではない。すべてのこと、どこにおいても同じだ。

聖フランチェスコの祈祷が、どうすべきかヒントを与えてくれる。「主よ、私ができることは最善を尽くせるようにして、私ができないことは諦められる勇気を与え、この2つを見分けられる知恵をお与えください」。

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    イラスト=カン・イルグ
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