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【コラム】北朝鮮、いつまで退行的な方法を続けるのか

2009.08.14 17:02
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分断60年が経ったが、まだ南と北を貫く民族の歌は断然アリランだ。公式的でもそうだ。1991年日本で開かれた第41回世界卓球選手権大会に南北韓が単一チームで参加し、韓半島旗とアリランが南北を象徴する国旗と国歌として使われたからだ。実際にその大会で韓国のヒョン・ジョンファと北朝鮮のイ・ブンヒで構成されたコリア女子チームが優勝したとき、授賞式場ではアリランが演奏された。

実際にアリランを共同の国歌として使うことにしたのはずっと以前のことだ。64年、東京五輪に派遣する単一チームを論議するために開かれた63年1月、スイスのローザンヌ会談で、南北はアリランを国歌とすることで合意したのだ。ただ単一チーム派遣がなくなり、実現しなかっただけだ。国際舞台だけではなかった。南北の親善試合であり南が北をあるいは北が南を応援する国際試合では間違いなく韓半島旗がはためき、アリランの曲が流れたりした。

 
しかし2002年、韓半島南と北の空には互いに違うアリランが響き始めた。民族の歌であるアリランが南と北で同時に、しかし全く違った形態で新しく生まれたのだ。

南側のアリランはワールドカップの興奮と感激の中で再創造された。既存の遅くて悲しい調子はユンベン(ユン・ドヒョンバンド)によってロックバージョンに変わり、その強烈なビートでアリランは民族の希望と成就を楽観する歌に生まれ変わった。それで我々は「大~韓民国」を叫びながらアリランを1日にも数十回、喉が枯れるほど歌い、内面から爆発する力を感じた。「オー必勝コリア」がワールドカップ善戦のための応援歌だったら、アリランは私たちの底力を確認して跳躍を確信する賛歌だった。未来のためのアリラン、希望のアリランだったのだ。

そのとき、平壌でもアリランは新たに生まれかわった。2002年4月29日、世界でいちばん大きいという平壌綾羅島(ルンラド)の5・1競技場でアリラン公演が始まったのだ。正式名称は「大集団体操と芸術公演アリラン」だった。カードセクションとマスゲームが約90分間一団となるこの公演には幼稚園生まで含まれた幼い子ども10万人が動員され、8月まで約4カ月も続いた。

子どもたちは数カ月の残酷な練習に耐えなければならず、公演期間中は午前授業、午後は終始競技場でリハーサルをしなければならなかった。照明効果のために公演が日が暮れるころ始まったからだ。長期間続くつらい演習と公演で負傷者が続出するのは当たり前だった。まともに食べることもできないのに照り付ける日差しにそのまま露出し、栄養失調になる子どもたちも多かった。筆者も北のガイドに子どもたちの食べものはどうなのかと尋ねたことがある。「パンと牛乳はあげます」そんなに大変な公演をしながらパンと牛乳しか与えないという答えもひどいものだが、パンと牛乳の次についた助詞「は」が伝えるニュアンスがさびしくさせた。

世界最大のマスゲームギネスブックに掲載された平壌のアリランは、それだけに怒りのアリランで、北朝鮮は、見なければ一生後悔するからと宣伝したが、見てからは一生、胸が痛むアリランだった。国連児童権利委員会(UNCRC)が児童の人権侵害を理由に北朝鮮に是正を勧告したほどだ。

経済難が続いた2002年、こうした長期間の大規模公演を準備した理由は、金日成(キム・イルソン)の90回目の誕生日を祝い、彼を通じて体制を結束するためのものだった。それで準備当時には金日成を象徴する「初の太陽の歌」と命名されてから金正日(キム・ジョンイル)の指示で「朝鮮がどんなに波乱の多い受難の歴史を経て自分の運命の主になり、今日、どれほど尊厳ある民族として出現することになったのか」を示すため、アリランに変更された。日帝強占期、民族の受難を象徴したアリランというコードを通じて体制の問題を民族の問題に切り替えようとする意図だった上、華麗な公演を通じて今日の苦痛を明日の喜びに代えようという政治的幻覚剤だったのだ。

しかしこうした方式で体制が維持され、住民が結束されるはずがない。問題は食糧であって踊りと歌ではないのだ。しかし住民を食べさせる能力がない北朝鮮政府としてはもっとひんぱんな公演で住民の不満を欺く方法しかなかった。それでアリランは2005年に再開され、1年休んで2007年と2008年連続公演された。

そうして先週の月曜日、また2009年のアリランが2カ月の日程で始まった。息苦しいだけで、確かに見える希望の道すなわち開放と改革の道を差し置いて、いつまでもこうした退行的な方法を続けていくのか切ないばかりだ。

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