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【そのときの今日】朝鮮軍の血で染まった辛未洋擾、傲慢と無知が呼んだ悲劇

2009.06.10 09:41
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1871年6月10日、土曜日。

 
快晴の空の下、暑い日だった。江華島草芝鎮(カンファド・チョジジン)沖に米アジア艦隊が現れた。

9インチの砲を誇るモノカシー(Monoccacy)号が先頭に立ち、後ろには曲射砲を積み込んだ4隻の軍艦が並んだ。その後ろにはパロス(Palos)号が上陸向けのボート22隻を引く姿を見せた。砲艦の砲身が火を噴き出し、草之鎮は焦土化した。

翌日、米軍は鎮撫(チンム)将軍・魚在淵(オ・ジェヨン)が守っていた広城堡(クァンソンボ)を攻略しはじめた。艦砲と上陸部隊が発砲する曲射砲に対抗した143門の朝鮮(チョソン、1392-1910年)の大砲は間もなくして鎮められた。1時間も続いた集中的な砲火が止りかけると、広城堡の頂上ではためいていた将軍の軍旗は、2人の兵士パビス、ブラウンの手によって押し下げられた。縦横4.5メートルにのぼる大型の帥字旗前で、銃を手にして立っている写真の中の2人が彼らだ。

ある米軍兵士はその日の凄まじい戦闘を次のように記述した。

「朝鮮軍は反撃のために弾薬を入れかえる時間もなくなると、フェンスの上にはい上がり、石を投げて米軍の進撃を防ごうとした。槍や剣で対抗する兵士もいたが、大半が素手で敵に立ち向かい、敵の目を傷付けようと砂をまいていた。ある兵士は首を刺して自殺し、自ら海に飛び込んだ」。

その日、廃虚と化した広城堡には、銃弾を防ぐために九重でできた綿毛入りの戦闘服を着たまま死んだ戦死者が243人に達し、服に火がついたまま海に飛び込み、海を赤く染めた兵士も約100人にのぼった。

「朝鮮軍は命がけで壮絶に戦い、何も恐れない姿で陣地を死守する途中に死んでいった。家族と国家のために、これほど壮絶に戦う国民を二度と見ることができない」。

シュレー少佐は敵ではあるものの、朝鮮軍が見せた「敢闘」精神に敬意を表した。しかし3人が戦死し10人が負傷した米軍の被害状況から考えて、そのときの戦闘は明白な敗戦であった。「西洋の人の船が噴き出す砲煙が天下を覆っても、東方の太陽と月は永遠に輝く」とし、自ら「勝利」を祝った大院君(テウォングン)の壮語は光を失う。

1854年に米国の「砲艦外交」に屈服した日本は、およそ20年後に米国をまねた砲艦を動員する武力デモで朝鮮を開港させた。そのとき、韓国の歴史の時計は逆に回っていた。大院君の鎖国攘夷(外国との通商・交通を禁止し、外敵を追い払って国内に入れないこと)政策は明白な時代錯誤だ。大院君の誤った判断は我々を亡国というドロ沼に落としてしまった。

力の政治(power politics)が再び作動する今日。帝国の米国に、核を兵器にして立ち向かう北朝鮮だけでなく、韓国の為政者らにも、帥字旗は「恥辱の過去の歴史を記憶しろ」というメメント・モリ(Memento Mori 死の警告)に迫る。

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