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3・1独立運動だけでない、日本で叫んだ2・8独立宣言も100周年

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.02.07 10:49
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今から100年前の1919年2月8日、東京には雪が降っていた。30年ぶりの大雪と言われるほどだった。この日、東京には大雪のほかにも類例のない事件が発生した。千代田区日本橋川付近の在日本東京朝鮮YMCA会館で約600人の朝鮮留学生が独立万歳を叫んだ。植民地時代の被支配国の民衆が支配国の首都の真ん中で行った異例の独立宣言だった。

当時日本にいた韓国人留学生678人は在日本東京朝鮮YMCA会館によく集まって雄弁大会を開いた。1919年1月6日に独立を熱望する演説が続き、学生は具体的な行動を計画することになった。

 
崔八鎔(チェ・パルヨン)、徐椿(ソ・チュン)、白寛洙(ペク・クァンス)、李光洙(イ・グァンス)など11人が実行委員になった。小説家として名を馳せたが、後に親日派に変節した李光洙が宣言文を起草した。

当時、朝鮮より日本の方がむしろ警察の監視から自由な雰囲気だった。また、東京が漢城(ハンソン)よりも外国の情報に接しやすかったため、世界的な民族自決主義の流れも留学生が先に把握した。

1919年2月8日午後2時、在日本東京朝鮮YMCAでは「朝鮮留学生学友会」定期総会が開かれた。しかしこれは監視を避けるためであり、実際には朝鮮青年独立団の独立宣言式があった。白寛洙が「朝鮮独立宣言書」を朗読し、金度演(キム・ドヨン)が決意表明をした。

「朝鮮青年独立団はわが2000万人の民族を代表して、正義と自由を勝ち取った世界のすべての国の前で独立を成就することを宣言する」。

宣言式が終わる頃、日本の警察が会場に乱入した。当時の外務省の「在京朝鮮人の最近の状況」によると、現場で留学生27人が逮捕された。

2・8独立宣言はその後、汎民族的独立運動の3・1運動につながり、同年4月11日に中国・上海で大韓民国臨時政府を樹立するきっかけになった。独立運動史で重要な意味を持つが、これまでそれほど注目されてこなかった。100周年を迎えて記念事業委員会などが発足し、2・8宣言書の歴史的な意義が再評価されている。

8日午前11時、ソウルYMCAと東京在日本韓国YMCAで2・8独立宣言を記念する行事が同時に開催される。東京現地の記念式には皮宇鎮(ピ・ウジン)報勲処長など約250人が出席する。ソウル鍾路(チョンノ)YMCAでは記念式のほか、2・8独立宣言の歴史的意義に関する講演も行われる。講演はイ・ドクチュ元監理教神学大教授(ソウルYMCA市民論壇委員)がする。イ教授は「2・8独立宣言書は民族問題を抱えているこの時代の青年に立派な歴史教材になる」と評価した。

イ教授によると、宣言書によく出てくる言葉は民族(45回)、日本(36回)、韓国(33回)で、10回以上繰り返された言葉は独立(14回)、自由(13回)、平和(11回)だった。不幸な現実で歴史を正確に記憶し、現実を診断し、幸せな未来を眺めたことが分かる。

2・8独立宣言は3・1独立宣言より強硬で闘争的な内容もある。宣言文は「要求が受け入れられない場合、日本に対して永遠の血戦を宣言する。これで発生する惨禍はわが民族の責任ではない」と武力闘争を明らかにした。

イ教授は「当時の青年は日帝植民統治下という不幸な現実を打破した後、民族の真の幸せが成就する未来を夢見た」とし「しかし解放後に戦争を経験し、分断状況が続く今も、当時の青年たちが夢見た未来はまだ『未完』の課題として残っている」と述べた。

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    3・1独立運動だけでない、日本で叫んだ2・8独立宣言も100周年

    2019.02.07 10:49
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    2・8独立宣言の主役。真ん中の列の左から2人目から崔八鎔(チェ・パルヨン)、尹昌錫(ユン・チャンソク)、白寛洙(ペク・クァンス)、徐椿(ソ・チュン)、金度演(キム・ドヨン)、宋継白(ソン・ケベク)(写真=在日本韓国YMCA)
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