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麻生一族の炭鉱徴用残酷史…慰霊碑に「朝鮮人」の字も刻ませなかった(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.03.07 07:32
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福岡空港から車に乗って東に約1時間を走り、田川というところに向かった。田川は日本3大石炭生産地である福岡県筑豊地域の代表的な炭鉱地だ。ここに日帝強占期時代、約15万人の朝鮮人労働者が強制動員された。

石炭と石灰石は戦争中の日本にとって非常に重要な物資だった。この地域の人々は石炭を「黒いダイヤモンド」、石灰石を「白いダイヤモンド」と呼んだ。筑豊地域で採掘された石炭と石灰石は八幡製鉄所(現・新日鉄住金)に送られ、ここで生産された鉄鋼製品は長崎などで軍艦や戦闘機のような軍需物資を作るために使われた。

 
ダンプトラックと大型レミコンが列をなし、その進行方向に従ってついていくと巨大な工場建物が現れた。「安全第一」と書かれた工場の壁面に麻生家の家紋が刻まれていた。1919年から麻生一家が運営している麻生セメントの工場だ。

麻生鉱業は1969年に石炭事業から手を引いてから麻生産業に名前を変えたが、麻生セメントは今でも麻生グループの核心事業体だ。

1939年当時、麻生セメントには約1000人の朝鮮人労働者がいた。取材に同行した在日史学者のパク・グァンス氏は「石炭の炭鉱ではダイナマイトを使って作業し、そのたびに大規模な人命被害が発生したが、石灰の石炭鉱では重労働によって一日に1~2人が亡くなった」と説明した。「1940年代以降、朝鮮人労働者が大きく増えたため朝鮮人寮が別途あったが、自由のない収監所同然の生活だったと付け加えた。

労働環境も凄惨だった。賃金がまともに支給されなかったり、暴力を振るわれたりする場合が日常茶飯事だった。1944年に福岡県が作成した「移入半島人(朝鮮人)労務者に関する調査表」によると、麻生鉱業の労働者7996人のうち4919人が逃走したことが明らかになっている。労働者の61.5%が逃走するほど、現場の労働環境が劣悪だったということだ。

パク氏の案内で近隣の共同墓地に移動した。小さな納骨堂の鉄門を開くと白い布に包まれた遺骨箱が2段の棚に並んで置かれていた。左側に朴OO、金OOなど朝鮮人名前が書かれた遺骨箱が、右側には日本人と推定される名前が書かれた遺骨箱が置かれていた。「無」と書かれた名のない遺骨箱も幾つもあった。

パク氏は「朝鮮人14柱、日本人18柱の遺骨が納められているが、麻生セメントで働いていた労働者や労働者の家族のものと推定される」としながら「当時創氏改名したことを勘案すると朝鮮人の遺骨はもっと多いかもしれない」と説明した。遺骨は1976年に穴観音という小さな寺院に放置されているのを当時の在日史学者である故キム・グァンヨル氏が発見して納骨堂に安置した。


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    2019.03.07 07:32
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    福岡県田川にある麻生セメント工場の全景。工場の壁面に麻生一族の家紋がついている。
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