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「アラブ人が新羅に定着したという記録は多い」 韓国のシルクロード研究者(1)

ⓒ韓国経済新聞/中央日報日本語版2013.03.26 14:01
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慶尚北道が野心に満ちたシルクロードプロジェクトを始めた。「慶州とシルクロードの関係」を世界に知らせようということだ。20日午前10時、ソウル小公洞(ソゴンドン)ロッテホテルでは、「コリアシルクロードプロジェクト」国家事業化のための推進委員会が発足した。21日には第1次探検隊がシルクロードの重要地点、中国の西安に向けて出発した。このプロジェクトの企画には、韓国最高のシルクロード研究者チョン・スイル韓国文明交流研究所所長も参加した。出発に先立ち、20日、チョン所長にロッテホテルで会った。以下は一問一答の要旨。

--このプロジェクトを企画した意図は。

 
「統一新羅とシルクロードの関係を究明しようということだ。もっと明確に言えば、慶州がシルクロードの東端起点ということを知らせようということだ。統一新羅と西域の間でシルクロードを通じた交易が盛んだったが、私たちはその時代、韓半島がどのように世界と疎通し、関係してきたかについて、あまり知らない。シルクロードは東西疎通の道で、私たちの根がある道であり、これは未来の韓国の歴史観にも影響を及ぼす。したがって歴史的に尊重し、研究しなければいけない」

--慶州がシルクロードの東端起点という主張は言い過ぎでは。

「慶州がシルクロードで最も重要な場所だったというのではない。中国西安が最も重要な都市だったのは正しい。しかし慶州が東側の出発点だったという点を想起させようということだ。実際、シルクロードはいくつかの道に分れている。3大幹線、5大支線という網目型の経路だ。幹線路の東端起点で終着点が“金色に輝く都城”の金城、すなわち“慶びの村”の慶州だ。これまで学問的にシルクロードから韓半島が除外されてきた。中国に研究が偏ってきた。しかしそれは事実でない。各種遺物・記録から、シルクロードは韓国と西域、南米までも関連していることが明らかになった。シルクロードを学問的に新しく確立しなければいけない」

--遺物や記録のような歴史的な証拠はあるのか。

「日本の学者、由水常雄氏の『ローマ文化の王国-新羅』では、新羅をローマ文化の王国と描写している。ローマ時代から西域と新羅の間に活発な交流があったということだ。もちろん遺物と史料で立証される。例えば文官の埴輪や武人の石像など地上の遺物を見ればよい。すべてローマ、ペルシャ、アラブと関連した遺物だ。新羅文化に見られる蓮華・唐草文様の壁画や古代ギリシャ文様も同じだ。中国やイスラム圏、西欧、欧州にも多大な学問的な影響を及ぼしたイドリシ(Abu “abdallah al-Idrisi、1100-1165年)が1154年に制作した世界地図には、新羅が中国の海岸に散らばる多くの島国の一つとして描写されている。昔から新羅がシルクロードを通じて知られていたという記録だ。統一新羅の僧侶・慧超が書いた『往五天竺国伝』も歴史的な根拠になる」

--新羅がアラブ圏と直接関係を結んだという記録はあるか。

「当然ある。ほとんどの記録が新羅を理想郷と見ている。845年ごろ、アラブ歴史学者イブンフルダーズベーが書いた『王国総覧』には、『中国の東側に新羅という国があるが、9人の王が治め、金が多く、住みやすい美しい国だ。このため新羅に行けば帰らず永遠に暮らす同族が多い』という記録が出てくる。ムスリム地理学者マクディシ(al-Maqdisi)が966年に書いた『創世と歴史書』にも『中国の東側に新羅という国があるが、空気が澄んで、富が多く、土地が肥沃で、水が良いだけでなく、住民の性格も穏やかで、新羅に行った人たちはそこから離れようとしない』とある。慶州の掛陵(新羅第38代元聖王の墓と推定)の前に立っている武人石像が新羅に来たアラブ人を表している」(中央SUNDAY第315号)


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    2013.03.26 14:01
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