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明治維新に対抗した会津…自決した19人の少年武士に多くの参拝者(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.09.03 13:58
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四方が山に囲まれた地方都市は天恵の要塞のように見えた。150年前の歴史を辿ろうとする人々で賑やかだった。

先月17日、東京から東北へ車を約3時間30分走らせて到着した福島県会津若松(旧地名・会津藩)の様子だ。

 
会津藩は徳川家に流れを汲む大名・会津松平家の領地だった。徳川幕府を倒した明治維新の中心勢力、薩長(薩摩藩+長州藩)同盟に対抗する反薩長、反維新の中心だった。薩摩は現在の鹿児島県、長州は山口県だ。

会津藩は世の流れが薩長同盟に移り変わった後も残りの勢力を糾合させて戊辰戦争(1868年1月~1869年6月)を戦い、激しく抵抗した。1868年5月から若松城(鶴ヶ城)を舞台に行われた5カ月間の激しい戦闘はそのハイライトだった。

特に有名なのは白虎隊の悲劇だ。敵の追撃によって飯盛山の奥に隠れた白虎隊所属の15~17歳の年若い武士20人余りが城周辺の煙を見て城が陥落したと誤解した。8月23日、彼らは「生きて恥辱を受けるよりは壮烈な最後が良い」として集団自決を選んだ。煙が広がり始める城周辺を見つめる少年像、そして並んで立つ19基の墓地は悲劇的な運命を雄弁に語る。自決の場所と墓地の周辺に参拝客が多いのはこのためだ。

「反乱軍」の汚名を着せられた会津の武士1万7000人は、本州最果ての現在の青森県下北半島の荒れ地に追われた。会津歴史研究者は「日本近代史では類を見ないほどの怨恨と憤怒が生じた」と主張する。実際、1930年代までの日本の歴史教科書は彼らを「反乱軍」と描写し、各種人事でも激しい差別を受けたという被害意識はまだ生々しく残っている。先月17日に訪れた会津若松では、「明治維新150年」という文面の代わりに、行く先々で「戊辰戦争150年」という旗がはためていていた。

150年前、会津藩の人々を荒れ地に追いやったのは長州藩出身の木戸孝允だ。薩長同盟を成功させた維新三傑の1人だ。

木戸の子孫である安倍晋三首相は先月26日、自民党総裁選挙戦への出馬宣言をわざわざ鹿児島で行った。そして「薩摩と(自身の出身地域である)長州がもう一度力を合わせて新しい時代を開きたい」と述べた。時事通信はその日、「会津のように反対側で戦った地域の反発が起きる可能性がある」と懸念を示した。

安倍首相にとって、明治維新150年は輝く勝者の歴史だ。勝者の地・鹿児島と山口では記念行事が1年中続いている。10月には政府次元の記念式まで開かれる。

明治維新が日本近代化の礎石になったことを否定するのは難しい。明治史の権威である東京大学の三谷博・名誉教授は、中央日報のインタビューで「明治維新は日本の近代化が始まった第1革命だ。太平洋戦争以降の改革、すなわち第2革命につながって現在の日本の姿を作った」と語る。


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    明治維新に対抗した会津…自決した19人の少年武士に多くの参拝者(1)

    2018.09.03 13:58
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    旧会津藩飯盛山の中腹にある少年武士の墓地を観光客が参拝している。自決を図った20人のうち1人が奇跡的に一命を取り留め、墓地は19基となっている。
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