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【コラム】日本はどのようにしてプリツカー賞の常連になったか(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.03.21 08:03
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毎年3月になると、世界の建築界はプリツカー賞のためにざわざわする。1979年に始まり、最高権威を得たこの賞の今年の主人公は日本の建築家。磯崎新だった。日本は、8人目の米国に続いてすでに7人(組)目の受賞者を誕生させた。歴代受賞者を1人でも出した国は19カ国になる。英国が4人で、フランス・イタリア・ドイツ・スイス・スペイン・ポルトガル・ブラジルに各2人ずついる。

興味深いのは、米国が創設初期12年間で7人の受賞者を出した反面、日本は2010年代だけで4人で、最近この賞の常連になっているという点だ。数千年の西洋建築が本流である現代建築ですら日本が先頭に立ったということは、近代化と近代建築が西欧ほど早く根を下ろしたという歴史だけでは説明がつかない。特有の職人精神のおかげといってしまえばドイツ・イタリアが気分を害するだろうし、経済力に頼ったネットワークや異国趣味(エキゾチシズム、exoticism)を理由にするのも少し卑しい。サッカーでもないのだ、そのまま冷静に認めよう。日本の建築はすでに世界的であることを越えて最高の境地だ。

 
むしろ興味が引かれるのはそれがいつから始まったかということだ。1987年と1993年は「功労賞」に近い。当時の経済的地位を考えれば、日本建築のゴッドファーザー的存在だった丹下健三と、ハーバード出身で米国で主に活動していた槇文彦にこの賞が贈られたことはそれに値する。1995年にボクシング選手出身である独学建築家の安藤忠雄が受賞すると、日本建築アカデミズムが一発食らわされたという言葉も出てきた。

安藤を世界建築界に紹介したのは著名な建築史学者ケネス・フランプトンだ。モダニズムの解放的性格と地域伝統の再解釈を結合した、いわゆる「批判的地域主義」で資本主義建築の弊害を越えられると考える彼は安藤をその例に挙げる。安藤は厳格な幾何学を使い、自然と不二の関係を結ぶように露出したコンクリートを使用するが、日本特有の透明で澄んだ伝統空間を再現する。

少なくとも1990年代まで、最も日本的だったから世界的になった安藤を除く日本の建築は、西欧建築の後を追うエピゴーネンだった。高級化した華やかな建物は多かったが、関西空港や東京フォーラムなどのランドマークはレンツォ・ピアノやラファエル・ヴィニオリのような外国建築家が占め、民間の建物でも欧州勢が地元建築家をおさえた。ところがその後2010年までの間に何があったのか。


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    2019.03.21 08:03
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