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【噴水台】李舜臣銅像の移転をめぐる問題=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.01.23 11:47
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現在、ソウル都心の中心軸は景福宮(キョンボックン)から世宗路(セジョンノ)、太平路(テピョンノ)を経て南大門(ナムデムン)までの道だ。朝鮮時代は違った。光化門(クァンファムン)-広橋(クァンギョ)-南大門が中心街だった。日本が太平路を拡張して今のように変えた。日帝強占期のことだ。龍山(ヨンサン)の日本軍が景福宮に容易に進入できるようにしようという意図だった。朴正熙(パク・ジョンヒ)大統領時代、過去の道を復元しようという意見があった。しかし費用が莫大だった。朴大統領は代わりにこのように決めた。「世宗路に日本が最も恐れる人物の銅像を置く」。

李舜臣将軍の銅像はこのように誕生した。制作は故キム・セジュン・ソウル大教授が引き受けた。銅像は高さ6.3メートル(台石含め16.8メートル)、重さ8トン。当時はこれほどの銅像を作る材料が不足した。薬莢、真鍮食器、屑鉄までも動員した。それでも適時に材料が得られず、何度も制作がストップした。そして13カ月後、1968年4月27日に除幕式を行った。

 
忠武公の銅像は謀略などで苦しんだ李舜臣将軍本人ほど苦労を経験した。除幕直後から「間違って制作した」という批判が出てきた。剣を右手に握り、あたかも総帥が降伏する姿のようで、日本刀、中国式の鎧だという声が続いた。70年代後半に政府は銅像の再制作を決めたが、10・26などでうやむやになった。

94年に政府は銅像の移転を検討した。世宗路には世宗大王像を設置し、忠武公の銅像は忠武路(チュンムロ)に移すということだった。「道の名前に合う銅像を置く」ということだった。しかし「忠武公像はすでに世宗路の象徴になっている」とソウル市が反対して実現しなかった。2004年に世宗路の歩道を拡張するとし、2008年には現在の光化門広場を造成しながらまた移転論が出てきた。2004年のインターネット世論調査では市民の87%が忠武公像の移転に反対した。

李舜臣将軍の銅像の移転がまた俎上に載せられている。ソウル市が一昨日、光化門広場拡張案を発表しながらだ。忠武公銅像を政府ソウル庁舎前に移すことにした。今回も発表するやいなや反対にぶつかった。光化門広場公募審査委員も当選作を選びながら「李舜臣将軍の銅像は歴史性があるためそのまま維持するのがよい」と話した。ソウル市は「公論化する」と一歩退いた。公論化を引き止める理由はない。移すかどうか市民の考えを聞いて決める過程自体が歴史であり文化だ。しかし公論化すると言いながら妙な陣営論理を引き出して激しく対立することがなければいい。それは忠武公も決して望まないだろう。

クォン・ヒョクジュ/論説委員

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