「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(2)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.06.10 16:47
日本では当初、沙也可を実存した人物として受け入れず、受け入れても否定的な認識を抱いてきた。沙也可に対する大衆的な関心を高めたのは1971年に司馬遼太郎が紀行文で沙也可を扱ってからだ。「背信者」のフレームから「大義のない戦争に抵抗した平和主義者」として沙也可を再解釈し始めたのもその後からだ。
和歌山県庁国際課の山下善夫国際企画班長は「沙也可のストーリーは映画化の話も出たほど多くの日本人が勇気ある人物と評価している」と述べた。
沙也可に関する記録は日本には残っていない。祖国を裏切った事実が明らかになる場合、残された家族が苦境に立たされることを憂慮して自らの身分を明らかにしなかったと考えられる。ただ、沙也可が火縄銃と大砲をうまく扱ったため、当時和歌山地域の鉄砲部隊として名が知られた雑賀部隊を率いた鈴木孫市の子孫が沙也可という説が最も有力だ。