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「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2019.06.10 16:47
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1592年4月13日。加藤清正の先鋒部将の沙也加は3000人の兵を率いて釜山(プサン)に上陸した。日本全国を統一した豊臣秀吉は朝鮮侵略を命じた。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の序盤、倭軍は連戦連勝していた。ところが3日が過ぎても沙也可の兵士に動きがなかった。1週間が経過した日、慶尚道兵使の朴晋(パク・ジン)に沙也可の手紙が届いた。

「この戦争は大義名分がない。朝鮮に投降する」。沙也可は敵陣の朝鮮側に立った。普段から「礼儀の国」の朝鮮に好感を抱いていたという。沙也可は火縄銃と火薬を作り方を朝鮮軍に伝授した。その後、功績が認められて金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。沙也可は丁卯胡乱、丙子胡乱にも参戦し、72歳で死去するまで朝鮮人として生きた。

 
壬辰倭乱当時、祖国を背を向けて朝鮮側に立った倭軍の武将、沙也可。沙也可顕彰碑が日本にあるという話を聞いて5日、和歌山県に向かった。大阪から列車に乗って南に約90キロ。沙也可の碑は和歌山市の紀州東照宮にあった。東照宮は徳川家康を祀る神社で、紀州は和歌山地域をいう。豊臣氏を滅ぼした家康の神社の前に沙也可の碑を建てたのは絶妙な選択だ。

紀州東照宮の管理者、西川秀大氏は「紀州地域は古くから朝鮮半島の影響を多く受け、朝鮮半島のものと同じ遺物も出土する」とし「日光にある東照宮が金色で華麗に飾られているのとは違い、紀州東照宮は緑と赤を主に使った朝鮮の丹青とよく似ている」と説明した。沙也可の碑が韓半島(朝鮮半島)と関連が深い紀州東照宮の前に建てられたのは必然だという話のように聞こえた。

沙也可の碑が建てられたのは2010年。当時、「沙也可日韓国際シンポジウム」が日本で開催されるのを記念して両国の関係者が集まった。沙也可を素材にした小説『海の伽耶琴』の作家・神坂次郎氏や金忠善(沙也可)の子孫が集まった。

ここには自民党の有力政治家、二階俊博幹事長(当時は総務会長)もいた。碑石はアシアナ航空の朴三求(パク・サムグ)会長に要請して韓国から運んだ。和歌山県を政治の基盤とする二階氏は沙也可が和歌山出身という点を率先して知らせた。2月には親しい朴智元(パク・ジウォン)民主平和党議員が和歌山を訪問した際、沙也可の碑に足を運んだ。

碑石の前には2本の木が寄り掛かるように絡んでいる。碑の建立当時をよく知る人は「意図してこの場所に決めたわけではないが、お互い寄り掛かるように絡んでいる木の姿が日韓関係を表しているようだ」と語った。


「名分なき戦争」として朝鮮に投降した沙也可、日本にも顕彰碑(2)

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    2019.06.10 16:47
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    壬辰倭乱当時に朝鮮に投降した倭軍の武将・沙也可は金忠善(キム・チュンソン)という名前を受けた。(写真=韓日友好館提供)
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