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【コラム】「うどん屋」のようだった駐韓日本大使館、新築も険難(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2017.09.11 10:27
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1000回目の水曜集会を記念するために建てられた少女像が語ることなく凝視する中で2012年8月に旧日本大使館周辺を警察がパトロールしている。
いまは取り壊されたが、ソウル・景福宮(キョンボックン)の向かい側の中学洞(チュンハクドン)には高層ビルの森に囲まれたみすぼらしく低い建物が建っていた。作られて40年を超えたこの5階建ての赤いれんが色の建物がまさに多くの受難を体験した日本大使館だった。ソウル駐在日本外交官と特派員の間では「うどん屋」と呼ばれていたこの公館は、韓日関係が悪化するたびに攻撃の標的になった。悪材が起きるたびに噴出した反日感情のターゲットになった格好だ。そんな日本大使館が2015年から再建築に入った。だが建築許可が下りることから順調でなかった。いったいどんな理由のためだったのか、その理由を調べてみた。

2年前まで建っていたソウル・中学洞の日本大使館を初めて見れば予想より規模が小さいと感じられるのが常だ。好むと好まざるにかかわらず、すぐ隣の国である上に、韓国とはどんな国よりも重要な経済関係を結んできた国が日本だ。世宗路(セジョンノロ)の大通りに堂々と建っている米国大使館だけでなく、最近建て替えられ雄大な規模を誇る中国大使館、ロシア大使館と比較しても窮屈なことこの上なかった。

 
好きでも嫌いでも日本は中国が急浮上する前の2000年代初期までも米国に続き2番目に大きな貿易相手国だった。1970~80年代の高度成長も日本の技術伝授なくしては不可能だったということは公然の秘密だ。嫌うことはできても重視しなければ困る国が日本であるのだ。

そんな日本の大使館がどうして中学洞の路地裏の狭い敷地に入ることになったのだろうか。事実1965年の韓日協定で国交が再開された際に日本政府が望んだ大使館の敷地はここではなかった。朝鮮末から日本公使館(乙巳保護条約後に朝鮮統監府に昇格)が位置した芸場洞(イェジャンドン)を日本政府は大使館用地として望んだ。歴史を探ってみればそうするだけの理由があったことを理解することになる。

海外公館は国力誇示とともに駐在国に対する関心を現わす手段でもある。19世紀末にどこの国より朝鮮に関心が多かった日本がこの土地に大きな公館を建てたということは極めて当然のことであろう。

日本は1880年に初めてソウル・西大門(ソデムン)の外に公使館を設置したが、2年後の1882年に壬午軍乱で焼失してしまうと市内各所を転々としなければならなかった。そうするうちに結局1885年に南山(ナムサン)北側の裾野の倭城台(ウェソンデ、現在の芸場洞一帯)に洋式の公使館の建物を新たに建て移って行った。現在のソウルアニメーションセンターの場所だ。このように用意された日本公使館は1905年に乙巳条約が締結されると1年後の1906年に朝鮮統監府に昇格することになる。

1910年に韓日併合がなされた後、朝鮮総督府が設置され統監府の建物は総督官舎として使われた。日本政府から見るなら芸場洞の場所はとても意味のある場所なのだ。こうした歴史を考慮してみると日本政府がここを新しい大使館の場所として要求したのも無理はなかった。

だが朴正熙(パク・チョンヒ)政権はこれを受け入れなかった。韓日協定以降険悪になった反日感情を考慮した措置だっただろう。これによって日本政府が結局得られた場所がまさに現在の中学洞の旧大使館の場所だ。後日談だが自分たちが考える国家的地位に比べ大使館の位置と建物の大きさがあまりに不十分だと考えた日本政府は調査チームを派遣して敷地選定経緯などを調査したという。

このようにようやく建てられたが日本大使館は継続して反日運動のターゲットになってきた。2012年7月には60代のトラックドライバーが自身のトラックを走らせ日本大使館正門に突進した事件も起きた。「独島(ドクト、日本名・竹島)は日本の領土」と書かれた杭が大使館前に設置されたことが突進理由だった。これだけでなく反日感情が拡大する事件が起きれば汚物、甚だしくは火炎瓶が大使館に投げ込まれるケースも珍しくない。


【コラム】「うどん屋」のようだった駐韓日本大使館、新築も険難(2)

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