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【コラム】ミスターサンシャイン、龍馬、トウ小平=韓国

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2018.10.15 11:14
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1980年ソウルの春。大学ごとに学徒護国団を解体し学生会を作っていた。たいてい運動圏サークルの代表が集まって候補を内定しておき会長に押し上げた。ソウル大学政治学科も代表をそうして選出した。3年生の何人かが相談して適任者を内定しておき総会を進める脚本まで組み立てた。

単独候補を推薦した後に再請、三請し司会者が議事棒を叩こうとした瞬間にある復学生が立ち上がって怒鳴りつけた。「政治学を勉強するというやつらが民主的手続きも守らないで、自分たち同士で内定した候補を無投票で押しつけるのか」。後にアクロポリス広場で情熱的な演説で名声を得た金富謙(キム・ブギョム)行政安全部長官だ。

 
振り返ってみれば傲慢だった。独裁政権と戦ってきた集団が正しく、黙認・傍観してきた集団は悪い。だから隊列を乱さず、闘争目標を貫徹するために単独候補を推すことが何の誤りかと考えた。道徳的優越感で手続きを無視して跳び超えようとしたのだ。

文在寅(ムン・ジェイン)大統領が11日に「手続き的正当性と民主的正当性」に言及した。済州道(チェジュド)の江汀(カンジョン)集落で海軍基地をめぐる対立に対し「政府が事業を進めながら住民と深く疎通できなかったために起きたこと」としてそのように述べた。その上で彼はデモ隊に対する政府の求償権が撤回され、「関連した事件が(裁判で)すべて確定し次第(赦免・復権を)積極的に検討する」と約束した。

文大統領が指摘する手続きは法律問題だけでなく感情的過程まで含む。法的要件が備わっても関連当事者との十分な共感がさらに必要だという言葉だ。江汀海軍基地建設を決めた当時、文大統領は大統領秘書室長だった。そうした点からこの日の発言は自省の声だ。

民主主義では絶対正しいものも絶対正しくないものもない。意見はそれぞれ違うことがある。異なる意見でも間違ったものではないと尊重する手続きだ。法的要件だけ備えたからと少数意見を握りつぶし強行する野蛮的・機械的多数決ではない。そこで必要なものが政治力だ。しかしこの政権でもそうした政治的妥協と説得の過程は見られない。法律家的な断罪と強行が大勢だ。さらに法に定めた「民主的手続き」を無視する時もあるが、道徳的優越感のためなのか罪悪感すらない。

この日文大統領が言及した赦免・復権も適切ではない。手続きを跳び超え三権分立の精神にも合わない。「大法院(最高裁に相当)が、司法府が速やかに手続きを(進行)すれば、終了する時に合わせて赦免・復権がなされると考える」(金宜謙青瓦台報道官)と公言しているところに裁判に何の意味があるのか。「どうせ結論は赦免」と予告しておいた事件に判事がどんな審判を下せるのか。

司法府改革も青瓦台が主導する印象を消し難い。大法院長を大統領が任命するのはみんながやることだがこのように破格的だろうか。そのせいだけでもない。文大統領は「司法介入疑惑は必ず糾明されなければならない」として司法改革を促した。チョ・グク民情首席秘書官は法院行政処廃止を注文した。検察捜査は不明確な運営費使用をめぐっても対象により「秘密資金」と「過去の慣行」の間を一進一退する。大法院長はなく青瓦台だけ見える。

国会でも一方通行だ。文大統領は「国会も憲法が付与した責務を尽くすことを望む」と訓示した。憲法裁判官の人事聴聞報告書採択、板門店(パンムンジョム)宣言の国会批准などを指す。政党ごとに考えが違うこともあり得るという度量、江汀で見せた説得努力は見られない。議会主義者だった金泳三(キム・ヨンサム)・金大中(キム・デジュン)元大統領とは明確に異なる。議会よりは市民団体寄りだ。ややもすると制度に対する軽視、過度な彼我区分に流れないだろうか心配だ。

ケーブルテレビのドラマ『ミスターサンシャイン』が終わった。旧韓末の悲しい歴史に対する関心を呼び起こし、反省の機会を与えた。このドラマでは善悪が明確だ。コ・エシンを助ける「味方」なら何をしても拍手を受けるのだろうか。シナリオ評価ではない。われわれの多くの認識が事実そうである。日本の開花期に坂本龍馬が「尊王壌夷」から親西洋開放派に転じたことと比較される。旧韓末にはそのような悩みが全くない悪いやつだけだったのか。

善悪の二分法には悩みと摸索、妥協と協治が入る場がない。権力の好みに合わせて動く制度暴力を憎悪した記憶もそれを手に握った瞬間に忘れる。自ら嫌悪していた前政権が立っていたその罠に歩いて入っていくのかもしれない。そうした点でもトウ小平の自制力と実用的知恵は本当にすごい。

キム・ジングク/中央日報コラムニスト

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