「その寒さの中で、戦乱を逃れようとする人々が腰まで水がくる海に飛び込みました。 誰かが乗せてくれることを願いながら、ただ待ち続けていました」。韓国戦争当時、咸境道(ハムギョンド)まで進撃した米第10軍団長補佐官ヘイグ大尉(後に米国務長官歴任)の記憶だ。 中国共産党軍に包囲された米第10軍団長のアルモンド将軍は、避難民の後送に難色を表した。 しかし偵察機に乗って興南埠頭の現場を見て考えが変わった。 「彼らをおいて行くことはできない」。1950年12月中旬、興南撤退作戦はこのように始まった。
その月の20日、マッカーサー司令部の指示で7600トン級の米国貨物船「ビクトリー号」が興南埠頭に接近した。 船着き場と砂浜は避難民で溢れ、そのそばに驚いた雛のように集まる子供たち…。 レナード・ラル船長の双眼鏡に入った姿だ。 米軍参謀が「どれほどの人数を乗せるかはそちらに任せる」と伝えると、彼は躊躇せず指示した。 「たくさん、できるだけ多く船に乗せろ。船が沈まない程度に」。何と1万4000人を乗せたこの船は機雷の中、巨済島(コジェド)へ無事に到着した。