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【コラム】もう一度生と死の岐路に立った21世紀の韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2023.10.10 16:06
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姿勢矯正専門家が私にこんなことを話したことがある。「先生は横になっていますが横になっている状態だとは言えません。これは横になっているのではなく、体を広げているだけです」。本当の「横になる姿勢」とは、力をできるだけ抜いて全身を放り投げる状態ではないということだった。

なるほど。私はベッドに横になってのびているのが好きなだけで、横になっていることが好きなのではなかったのだ。そういわれてみれば、目を閉じるからといってそれがすべて「眠っている」ことではないし、口に入れるからといってそれがすべて「食べる」ことではないし、話すからといってそれがすべて「対話」ではないし、非難イコール批判でもなく、お世辞イコール尊敬でもなく、生きるからといってそれがすべて「生きる」ことでもなく、死ぬからといってすれがすべて「死ぬ」ことでもないということだろう。

 
◇「生きるように生きたい」希望

「生きる」ということはどういうことか。息をしていればそれがすべて「生きる」ということなのだろうか。どこまでが生きている状態なのか。科学者の間でも論争が多い。心臓が動いていれば「生きる」ということなのか。脳が作動すれば「生きる」ということなのか。生存していれば「生きる」ということなのか。多くの人が延命治療を拒否するようになっているではないか。多くの人々が劣悪な療養施設で横になって死ぬことを恐れているではないか。

彼らは生命を軽視しているわけではない。単に生存に過ぎない人生を恐れているのだ。人生の中でそれぞれ1回はつぶやいてみたと思われる「生きることが生きるのではない」「生きるように生きたい」という言葉で、人間は単なる生命維持以上のことを望んでいることが分かる。肉の塊である以上の「生」、意志に沿って生きる「生」、やりがいがある「生」、充満した「生」、生きるに値した「生」を望む。

「死ぬ」ということはどういうことか。息をしなければすべて「死ぬ」ということか。どこから死んだ状態なのか。科学者の間でも論争が多い。心臓が止まれば死んだということか。脳が作動を止めれば死んだということか。生体反応だけが死を決めるのか。何もできないのに心臓だけが動いていれば、それはきっと死んだということではないか。ある人は正常に生きているにもかかわらず死んでいるのと変わらないという判定を受けることがある。彼の「政治生命」は死んだという判定を受けることがある。まだ美しい、ある人は自身の若く美しかった写真を見せて寂しくこう言う。「この人は死にました」と。

どうせ一度だけの人生ではないか。いや必ずしもそういうわけでもない。生命複製技術を通じて繰り返し生きていくことができると信じる人もいる。自分の身体は死んでも自分の遺伝子は子どもを通じてずっと生きていくと信じる人もいる。個体としては死ぬが、それは人間という種の永続のために必要なことだと考える人もいる。体は死んだが精神は生きていると叫ぶ人もいる。

◇「臆病者は幾度も死ぬ」

体は生きているが魂は死んだと信じている人もいる。シェークスピアは『ジュリアス・シーザー』でこう書いている。「臆病者は本当に死ぬまでに幾度も死ぬが、勇者は一度しか死を経験しない」。卑屈になる時に死ぬ。信条を折る時に死ぬ。アイデンティティに反する時に死ぬ。人間以下のことを犯した時に死ぬ。魂は時々刻々と死ぬ。ウェブトゥーン『冬の文を書くこと』で主人公はやや低めにつぶやく。「死んでいなくても死んだように生きる人々もいる

人生は死以外の方式でも終わる場合があるから」

その通りだ。死以外の方式でも「生」が終わる場合がある。守ってきた価値が消えた時、そして彼がこれ以上「彼」ではない時、人々は言う、私が知っている彼は死んだと。自分が守ってきた価値を捨てようと思う時、自分を信じてくれた人々に言うかもしれない。「あなたの知っている誰それは死にました」と。誰かが平気であなたの死を宣言したりもする。「私が知っている誰それはもうこの世の中にはいない」と言って恋人があなたの元を離れる。

◇「あなたが知っている国は死にました」

何も人間だけに限った話ではない。組織や共同体に対しても生滅を話すことができるだろう。名前が学校というだけで、我々が知っているその学校であることをやめたときにいうことができる。「あなたが知っているその学校は死にました」。人と人が会って変化と成長を図る場所がただ卒業証書をやりとりする場所、お金だけを消費する場所、疎外を繰り返す場所、嫌悪を繰り返す場所、存在を否定する場所、場所ではない「非場所」になった時、我々はそれを依然として学校と呼ぶことができるだろうか。いくらお金があふれるようにあり競争率が高くても、そこを生きている学校と呼ぶことはできるだろうか。「あなたが知っている学校はすでに死にました」

これは何も学校だけに限った話ではない。国に対しても死を語ることができるだろう。名前が国というだけで、人々の人権が保障されない場所、悲惨が荒れ狂う場所、障害者を無視する場所、仲間の市民を悪魔化する場所、人が人扱いしない場所。国の仮面をかぶっただけで国のようではない時、我々はそれを依然として国と呼ぶことができるだろうか。いくら経済成長をして株価が上がっても、そこを生きるに値する国あるいは生きている国と呼ぶことはできるだろうか。「あなたが知っている国はすでに死にました」

圧倒的な軍事力を持つ「蛮夷」が朝鮮を侵略した時に斥和論争が起きた。忠臣が泣いて訴える。陛下、あのように強い蛮夷に抵抗すれば国が滅びてなくなるでしょう!別の忠臣が泣いて訴える。蛮夷に投降することこそ国が滅びることです!上国として仕えていた明の国を捨てて蛮夷を敬うことこそ国が滅びる道です。

このように話した者は朝鮮が物理的勝敗には関係なく、守らなければならない目的がある共同体だと信じていたのだ。物理的生存が脅威を受ける時点で彼らはジレンマに直面する。魂を殺して物理的生存を選ぶのか、あるいは物理的に死んでも魂を生かすのか。

死んでも魂を生かすとは、それは何か贅沢なことなのか。しかし魂が生きていてこそ復活を夢見ることができると思っていた人々もいる。それでこそ死んでも死なないこともあると、滅びても滅びないこともあると信じていた人々もいる。独立活動家の韓龍雲(ハン・ヨンウン)は歌う。「ああ、あなたは行ったが私はあなたを見送りませんでした」。

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