【コラム】韓国、日本に寛大な対応をしたが
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2023.05.16 15:30
1876年1月、倭が来た。千の兵力と騎馬兵、大砲と旋回砲で武装した12隻の船だった。司令官は明治功臣の36歳の黒田清隆。牙山(アサン)湾の豊島を守っていた水兵が報告した。「数隻の汽船が黒い煙を上げながら水平線に現れました。日が暮れたが、引き続き見守ります」(申ホン『沁行日記』)。それが倭船であることを確認するのに数日かかった。大阜島(テブド)の僉使が戦艦に書かれている玄武丸の字を把握した。朝廷は大騒ぎになった。なぜ来たのか。
江華島(カンファド)修好条規の序幕はこうだった。黒田が強要した明治政府の条約文に接見大官の申ホン将軍は300年の交隣相敬(伝統的親交)で対応した。国際法の万国公法の時代にそれは旧時代の遺物、力不足だった。結局、日本の強制要求を受けた。遠く眺めた明治政府の大陸進出設計図だった。その後、両国はエリック・ホブズボームが「極端な時代」と呼んだ狂気に巻き込まれた。結果は人類史的な悲劇。日本は残酷な加害者、韓国は残酷な被害者に分かれた。犬猿の仲だった。「すでに精算した」と「誠意ある謝罪がない」が対立し、破裂音を起こした。