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【グローバルアイ】1945年8月6日、広島の「ピカドン」

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2023.05.16 14:27
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空襲警報解除の知らせに、早朝から大騒ぎだった。小学校5年生、3年生の2人の弟の手をつないで家を出た。空は晴れわたっていて実に清々しかった。路面電車に乗った。西へ20メートルほど走っただろうか、かすかな爆音が聞こえた。叫び声があちこちから聞こえた。「早く路面電車から飛び降りろ!」どこからか熱い火の玉が迫ってくるようだった。

気がついて辺りを見回してみると、辺りは真っ暗だった。何も見えなかった。また暗くなった朝が不思議でさえあった。少し明るくなると、さっきまで乗っていた電車の前の部分が見え始めた。電車は燃えてしまっていた。誰かが「ガスタンクが爆発したのだろう」と言ったが、信じられなかった。少し明るくなったとき、自分の目が信じられなかった。通りの建物はすべて倒壊していた。大人たちがかばってくれたおかげで無事だった二人の弟の手をつないで、再び家に向かった。倒壊した建物の瓦礫で通れなくなった道。家に帰ることすら難しかった。1945年8月6日、午前8時15分。日本の広島に落ちた原爆は、当時中学1年生だった朴南珠(パク・ナムジュ)さん(91)の人生を一変させた。

 
在日同胞2世の朴さんがいたのは、原爆が投下された場所から1.9キロ離れた場所だった。黒い雨が降り始めた。広島の夜は何日も真っ赤に染まった。被爆した人々が最後の瞬間まで苦痛にもがきながら口にした言葉は「水」。朴さんは「今でも当時を思い出すと涙が出る」と話す。「悲惨で残酷な地獄、広島は地獄だった」と身震いした。隣の家の同級生の男の子、とみこ姉さんの家族は、その日から家に帰ってこなかった。人々は挨拶のようにこう言った。「ピカドンから生き残ったんだね!」と。広島に住んでいた多くの朝鮮人は韓国に帰ったが、祖母の家族は残って被爆や貧困と戦った。その日、家に帰れなかった叔父を探すためだった。

電話の中のおばあさんの声は明るく、まもなく広島で開かれるG7(主要7カ国)首脳会議(サミット)に招待された尹錫悦(ユン・ソクヨル)大統領が岸田文雄首相とともに韓国人原爆犠牲者慰霊碑を参拝するというニュースに「本当にうれしいと思った」と語った。「これまで原爆被害を受けたのは日本人だけではないということを言いたかったが、両国首脳が初めて参拝することになった」と歓迎した。慰霊碑の裏面には「約10万人が兵士、軍属、徴用工、動員学徒、一般市民として生きていた」と刻まれているが、ここに参拝することは「それを認めること」だとも話した。「意味のある参拝にしたい」という岸田首相の言葉通り、ぜひ両首脳が意味のある慰霊のメッセージを発信してほしい。

キム・ヒョンイェ/東京特派員

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