【コラム】梨泰院惨事を通して見る共同体的責任=韓国(1)
ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.11.03 16:06
遠い昔の人たちは災難があれば「原因」を探す代わりに「犯人」を捕まえて消したりした。もちろんそれで問題が解決されるわけがないが、この呪術的慣行は少なくとも人々に心理的な安定感は与えたはずだ。我々はそこからどれだけ進化したのだろうか。社会的な災難はたいてい構造的な要因によって発生する。事故の再発を防ごうとすれば、事故の複雑な構造に関連した要因を一つ一つを除去して事故の確率を減らしていかなければいけない。ところがこうした接近は我々の社会ではそれほど歓迎されない。
我々が犠牲の羊を出すことを好むのには理由がある。まず、それは構造的な要因を把握するのに必要な認識の苦労を減らす。そして犯人を処罰することで原因が除去されて直ちに問題が解決される。さらに感情を投射するのには、やはり抽象的な「構造」よりも具体的な人間が適している。構造に暴言を吐いて憤怒することはできない。大衆のわだかまりを受けとるのはやはり「人間」が適格だ。