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【コラム】梨泰院惨事を通して見る共同体的責任=韓国(1)

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.11.03 16:06
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遠い昔の人たちは災難があれば「原因」を探す代わりに「犯人」を捕まえて消したりした。もちろんそれで問題が解決されるわけがないが、この呪術的慣行は少なくとも人々に心理的な安定感は与えたはずだ。我々はそこからどれだけ進化したのだろうか。社会的な災難はたいてい構造的な要因によって発生する。事故の再発を防ごうとすれば、事故の複雑な構造に関連した要因を一つ一つを除去して事故の確率を減らしていかなければいけない。ところがこうした接近は我々の社会ではそれほど歓迎されない。

我々が犠牲の羊を出すことを好むのには理由がある。まず、それは構造的な要因を把握するのに必要な認識の苦労を減らす。そして犯人を処罰することで原因が除去されて直ちに問題が解決される。さらに感情を投射するのには、やはり抽象的な「構造」よりも具体的な人間が適している。構造に暴言を吐いて憤怒することはできない。大衆のわだかまりを受けとるのはやはり「人間」が適格だ。

 
案の定、今回もある記者がこれはすべて「予見された惨事」だったと書いた。すべての予言の問題は必ず事件が発生した後に的中するというところにある。惨事を予想しても何もしなかったというこで、未必の故意による殺人を犯したということだ。事実をいえば、この事故は誰も予想していなかった。事故が発生するやいなや今回の惨事が当局の問題であることを立証する情報提供から受けたその放送局も、その前日の報道ではハロウィーンのムードを煽っていた。

惨事の最も大きな原因は、我々の頭の中にこうした事故の可能性自体が最初から入っていなかったという点だ。投入された警察の数を問いただすのは無駄なことだ。その人員は最初から事故予防でなく犯罪予防のために投入されたのだった。したがってこうした事態を予想して用意された対応マニュアルがあったはずがない。たとえ警察が通報電話11回にすべて出動していても、収拾手続きの「マニュアル」がない限り、電話を受けて出て行ったという4回の出動と何が違っていたのか分からない。

2つ目の穴は官僚主義だ。龍山(ヨンサン)区庁長は「主催者がいない行事」を「現象」と言った。その事故は区の「責任」でないということだ。警察は自分たちに市民の移動権に干渉する法的「権限」がないという態度だ。ハロウィーンはこのように当局の「責任」と「権限」の外に置かれた異常な「現象」になった。日本の場合、主催者がいないハロウィーン行事の安全の責任を警察と自治体が共に負うという。群衆の動線を指揮する渋谷のDJポリスはすでに祭りの名物になった。

3つ目の穴は立法の問題だ。日本でDJポリスが市民の移動権に干渉する権限を持ったのは、いち早く警備立法を改正し、新しく「雑踏警備」項目を盛り込んだためだという。韓国の国会議員はその間、何をしていたのか分からない。日本の場合、自治体で今回の行事が開かれる渋谷のすべての路上を歩き回り、危険な場所をあらかじめチェックしておいたという。ソウル市と龍山区にも市と区の議員がいるはずだが、高い費用をかけて外遊しながら、なぜこのようなことを習ってこなかったのだろうか。

【コラム】梨泰院惨事を通して見る共同体的責任=韓国(2)

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