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【コラム】日本・小田原で起きたこと

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.08.02 09:55
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日本の「道徳再武装(MRA)」名誉総裁の相馬雪香さんの招きで2006年6月7日から9日まで開催された第25回小田原MRA国際大会に出席するために日本を訪れた。小田原アジアセンターを訪れたとき、健康な一人の女性が満面の笑みを浮かべて私のカバンを手に取り、私の居所まで案内してくれた。

大会が始まった日の夜、一人目の演者として登壇した人は日本MRA名誉総裁の相馬雪香さんだった。相馬さんは九十歳を迎えたご老人だったが、その方の実直な精神世界は彼女の存在感を大きくし、その方の言葉には大きな感化力があった。その方は、この大会が「21世紀は和解と対話の世紀」というテーマで開かれているが、特に日韓両国の和解の問題にもっと深い関心を持ってほしいとの要旨の話をした。

本大会が開かれる日は晴れていた。今大会では私も主題発表をして討論会に参加することになっていた。私が発表する主題は「韓日両国の協力で世界平和に寄与しよう」だった。私は主題発表で「もしある人が非常に豊かな幸福を感じているなら、この人は自分と近い人々と円満な人間関係を結んでいることでしょう。これとは反対に、自分の家族や近い隣人と人間関係が悪い人は不幸な人でしょう。私たちは何の関係もない人、すなわち近くない縁を通じては幸福も不幸も経験できません。国家も同じです。近い隣国と関係が良くなってこそ平和を維持することができます。もし隣国との関係が悪ければ葛藤が深まり対立が激しくなり、戦争が起きる場合もあります。日本と韓国はとても近い隣国です。しかし相手国よりも強い国は常に弱い国を支配したがります。1910年、韓日両国にはとても悪い歴史が始まりました。その当時、日本は韓国に比べてさまざまな面でとても強かったようで、その時代を生きた日本の人々は韓国を占領しました。1945年韓国が解放されるまでの36年間、植民地として統治し、韓国の人々を抑圧して苦しめました。私は幼いころ、その時の歴史を経験しました。最も強烈な記憶は、自分たちの言葉と文章を書くことができないことでした。そして各自の姓と名前さえも日本語に変えなければなりませんでした。そして私たちが栽培した米はすべて奪われ、韓国人は油を絞り出した豆かすで命をつないでいかなくてはなりませんでした。私の母、祖母は金属器すら奪われるまいと奥に隠すことに苦心しました。若い男性は戦場に連れて行かれて命を失い、いま韓国で挺身隊と呼ばれるその時代の若い女性たちは日本軍慰安婦として連れて行かれました。日本植民地時代の抑圧されて苦痛を受けた韓国の人々はその全てのものを歴史として記録し、後の人々に語り継いでいます。そのためこの時代を生きている現在の韓国の人々も胸中深く日本人を嫌って憎悪しているとみることができます。私もそのような人でした。しかし1987年スイス・コーのマウンテン・ハウスで開かれたMRA世界大会でスイスのシルビア・チュバさんの助けを借りてその心を変えることができました。その時から私は日本人に対する憎しみの感情がなくなっただけでなく、相馬さんを尊敬して何人かの日本の友達と親しくなりました。もし韓日両国が互いに協力して、さらに貧しい国を助ける平和のエネルギーを生産できるなら、韓日両国は世界平和に大きく寄与できるでしょう」。

私は下手な英語でとても緊張した状態で発表を終えた。暫くして討論時間に相馬さんが非常に激昂した語調で「今日、私たちが韓国のパク・チョンス教務とご一緒しているということは非常に幸せなことです」と述べたとき、相馬さんの声は震え、目は涙がいまにもあふんばかりだった。その瞬間、相馬さんの隣の席に座っていケイコさんが急に私のところまでやってきて跪き、上半身をまっすぐにした姿勢で私を仰ぎ見ながら「パク教務、私たちをお許しください。私はキリスト教徒です。イエス・キリストの名の下に私たちの誤った過去に対して心からお詫びし、容赦を求めるのでお許しください」と涙声で話した。すると椅子に座っていた多くの人々が皆一緒に跪き涙を拭いて首をうな垂れた。

とても慌てた私はどうしたらよいか分からなかった。ケイコさんの視線は非常に強烈で、私が発表したすべてのことに一つひとつ言及して容赦を求めた。私は彼女を立たせて懐に引き寄せて軽く叩いた。私は他の人にもそのようにした。

私はしばらく窓の外の小田原の空を見上げていた。三・一独立万歳の幻聴が聞こえるようだったし、圧迫と苦痛の中で亡くなったその時の霊魂がひたすら小田原の上空を旋回しているようにも感じた。

パク・チョンス/チョンス分け合い実践会理事長

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