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【時視各角】ウトロ、奇跡のもう一つの名前

ⓒ 中央日報/中央日報日本語版2022.04.11 14:55
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2018年4月22日、京都府宇治市ウトロ地区で祭りが開かれた。「ヤキニク祭り」と呼ばれた。火鉢で肉を焼きながら楽しい時間を過ごした。この日はウトロ市営住宅の入居式が行われた日だ。参加者を過去を思いながら涙を流した。

4年後の今月30日、ウトロ地区でまた祭りが開かれる。ウトロ平和祈念館の開館式だ。80年余りのウトロの歴史に新しい里程標を立てる行事だ。「ウトロ2期」宣言といえる。漢字は記念でなく祈念だ。記憶よりも祈る心、平和を祈る場所ということだ。逆に言えばそれだけ平和でなかったということだ。

ウトロ。耳に残る名前だ。差別と蔑視の在日韓国人を象徴する言葉の一つだ。日帝強占期の1941年、京都飛行場の建設に動員され、戦争が終わった後にも故国に帰れない朝鮮人が集まってこの地区が形成された。韓国と日本、その境界で日々の危険に耐えた人たちの痛みが積もったところだ。

ウトロ地区がもう平和を話す。過去より未来を眺めようという。過去80年余りの葛藤と対立は消えないだろうが、それでも昨日よりもよい明日を希求する思いからだ。平和祈念館が歴史の和解に向かう新しい出発になることを期待する。

ウトロ祈念館は延べ面積450平方メートル、地上3階規模で、展示場・公演会場・収蔵庫などがある。特に祈念館の前に復元された飯場が目を引く。飯場は飛行場の建設に動員された労働者の臨時宿舎だった。1940年代初期、約1300人の朝鮮人労働者の家族は3坪ほどの狭い部屋で過ごさなければならなかった。

日本が敗戦した後も状況は変わらなかった。故郷に帰っても生活できない人たちはそこに残って日々を細々と暮らした。日本当局も朝鮮人を「いない人」として扱った。1988年3月に上水道が初めて設置されるほどだった。住民は井戸の水に頼って生きた。公衆衛生もよくなかった。

ウトロ問題が本格化したのは1980年代後半からだ。1989年に日本不動産会社が住民に立ち退きを通知して訴訟を起こし、2000年に日本最高裁判所が強制退去確定判決を出すと、波紋が広がった。半世紀の生活拠点を一瞬にして失う危機に直面したウトロ住民を守ろうとする韓国と日本、そして国際社会の世論が形成され始めた。その後、両国の市民社会と政府の支援で住居環境改善、市営アパート建設、平和祈念館の建設が進められることになった。反目と不和の韓日関係の中で奇跡のようなことだ。

ウトロ祈念館はさまざまな開館行事を準備している。日帝強占期動員記録、住民の生活用品、強制立ち退きに対抗した闘争・訴訟文書、住民インタビュー映像などが公開される。差別の過去を記憶し、共存の未来を約束しようという趣旨だ。

しかし将来は明るいことばかりではない。ウトロ地区も独島(ドクト、日本名・竹島)・歴史教科書・強制徴用葛藤など最悪の韓日関係から抜け出せない。祈念館の建設を支援したチェ・サング地球村同胞連帯事務局長は「祈念館が日本国内の嫌韓勢力のターゲットになることも考えられる。実際に昨年は放火事件もあった。ところが嫌悪は歴史の実体を知らないところからくる恐れではないだろうか。祈念館がこれまでの誤解を解いていくきっかけになればいい」と述べた。

ウトロは現在進行形だ。韓国社会に投げかけるメッセージも大きい。韓日両国を越えて差別と平和に対する根源的な省察を促す。学習院女子大の羅京洙(ラ・キョンス)教授は「国際社会が注目したのも単なる反日を越えてウトロ地区に内在する普遍性」と評価した。

「市民は自国の国境線の前で思考を停止してはいけない。自分自身の壁、人種主義という壁、女性差別など日常的差別の壁を一つずつ崩して、我々の子孫に『生きる価値』がある社会を残すことが平和のために戦う意味だ」(1990年、国際平和会議inウトロ)

パク・ジョンホ/首席論説委員

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    【時視各角】ウトロ、奇跡のもう一つの名前

    2022.04.11 14:55
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    京都ウトロ地区で30日に開館する平和祈念館(右の建物)。祈念館の前に朝鮮人臨時宿舎の飯場が再現される。写真の左側のアパートは2018年に完工した市営住宅。現在の市営住宅2号(真ん中)が建設中。 [写真=地球村同胞連帯]
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